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轍の行方は誰も知らず、ただするすると廻るのみ

 賑わう市場に、思わず目をすがめた。見渡す限り人、人、人——の足。獣の視点では仕方がないが、足の群れが四方八方にせわしく動く光景が目の前を埋め尽くし、激しい眩暈(の錯覚)が襲いかかった。
「シャンク!」悲鳴をあげて、連れの少年を呼び止める。行き交う人の群れに加わろうとしている彼の正気が信じられない。「なんだこれ、なんの騒ぎだ!」
「ん?」足を止めて振り返ったシャンクは平然と言ってくる。「なにって。ちょっと人が多いだけだろ」
「ちょっとだって?」その台詞に、自分で発したものながら絶望的な響きを聞き取る。「昆虫の群れみたいにうじゃうじゃと。この人数がみんな買い物か。昼の日中だぞ!」
「だって、そろそろ還季祭だろ。買わなきゃいけないものも多いし、大抵の作業場は休みに入るから、家族総出だよ、そりゃ」
「むうう」
 常識だとばかりに語られて少々勢いがしぼんだ。還季祭と呼ばれる行事の存在は知っていた。だが季節の祭事というのは魔法使いにはさして関係のないものだ。魔法使いは魔法を磨き、ムーンウォークを目指す。それ以外にやることなど、少し——本当にほんの少ししかない。
「嫌なら先にもどってろよ。どうせ荷物が持てるわけでもないんだし」
「ぼくだってそうしたいところだけど」憮然として告げる。「きみだけじゃわからないだろ」
「説明してくれたら買って帰るよ」
「そう言って、この前も間違ったもの買ってきたよね?」
「お前の注文はややこしいんだよ。微妙な色の違いなんてわかるかよ」
「きみの目が節穴なんだよ」短くうなる。言ったところで終わったことだし、目の前の人混みは消え去ったりはしない。魔法で起こした大風で群衆を吹き飛ばす妄想に逃げ込もうとする自分を、頭を振って現実に呼び戻す。「還季祭ねえ」
「はあ。俺たちも準備しないとなあ」
「えっ」
「な、なんだよ」
「俺たちって?」
「俺とお前だよ。なにか変なこと言ったか?」
(変だよ)
 そう言いたいのをこらえた。自分でも、なぜそんな些細な言葉に反応したのかわからなかったからだ。言うべきことならば他にもあったからでもある。
「そんな余裕あるの、そのうっすい財布に」
 シャンクが小さく肩を落とした。「あんまりないけど、こういうことをやっておかないと叱られるんだ……」
「誰に。って、聞くまでもないか」シャンクがこうもしょぼくれる相手など限られている。「ほんっとーに、頭が上がらないんだねえ。あんな老人ひとりにさ」
「自分でもどうかとは思う」
 ただでさえ、幼い頃から接している相手だ。仕方のないことなのだろう。
 直接顔を合わせたことはまだ数える程だが、厳格そうな雰囲気は感じ取っていた。あんなひとけのない森の奥にある大きな館を老婆ひとりで管理しているとなれば、表情は険しくもなるのだろうが、シャンクの口ぶりではそればかりが理由ではないようだった。つまりは元からだ。
 ふたりは特に親しいわけではなく、しかしよそよそしいわけでもなかった。上下関係はあるにせよ、どちらかが過剰に遠慮するわけでもない。彼らの関係は、雇い主と盗賊というよりも、もっとありふれたものに思えた。家族というものに。
 思い出す。
 還季祭とは家族の行事だ。家族が揃って無事に一年を終えた節目を意味する。そう聞いた。
 彼は先ほど「俺たちも」と言った。俺たちというのは彼と自分のことだ。彼と自分は家族だろうか。
 いいや。
 自分たちは来年もともにいるのだろうか?
 どうだろう。一年ぽっちでは、互いの目的は果たされないかもしれない。真性の魔法、ムーンウォークに至る術はそれほどの重みを持つ秘術だ。だから来年のこの時期にも一緒にいるのかもしれない。
 だがこんなことがいつまでも続くはずがない……
「ブリアン?」
「なんだよ」言ってしまってから自分の口調のとげとげしさに気がついた。が、後の祭りだ。シャンクはすっかり困惑顔で、不機嫌な相棒にかける言葉を探している。
(君のせいじゃない)
 そう言ってやるのは本来なら簡単なことのはずだ。事実なのだから。彼が気に病むべきことなどひとつだってないし、彼が、出会って一年も経たないような存在に——秘儀盗賊が魔法使いに!——慰めの言葉をかける必要なんてまったくないのだ。
 だがそれをうまく伝える言葉は見つからなかった。
 仕方なく、足に擦り寄る。まるで本物の猫みたいに。
「ブリアン?」
 訝る声に素知らぬ振りをする。「早く済ませて帰ろうよ。踏み潰されたらどうしてくれるのさ」
「いやそこはちゃんと避けろよ。猫だろ」
「猫じゃない!」たとえ勝手に背中の毛が逆立っているとしてもだ!
「あー」まるで困り果てたときみたいな声をあげ、シャンクは足を止める。「やっぱりお前、帰ってろよ。見分けられなかったら両方買っとくから」
「そんなもったいないことするな。ぼくも行く」きっぱりと言って彼を見上げた。「ちょっと動くなよ」
「え?」
 駆け上がる。シャンクの背を包む白のマントに爪が引っかかりにくいことを初めて知って、ずり落ちそうになりながらもなんとか肩まで辿り着いた。
 目を丸くしてこちらを見る視線を感じながら歓声をあげる。
「最初からこうしてればよかった! 歩かなくて済む。蹴っ飛ばされる心配もない」
「俺は今まで、抱いていこうかって何度も——」
「嫌だ」愛玩物でもあるまいに。
 つんと鼻をそびやかすと足元が軽く揺れた。嘆息したらしい。失敬な——そうは思うが、理解だけはしていた。
 彼にはきっといつまでもわからないだろう。だが、それでいい。
 理解してもらう必要などない。くだらない理由だとしても、自分に無視できない理由であることに変わりはない。
「落ちるなよ」「わかってるよ」
 少年と同じ視点で見る人ごみは、恐ろしいものでもなんでもなかった。