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Drifter

 振り返った先で、男がわずかに表情を変えた。彼は唇を引き締めて、扉を開く前に用意していた言葉を飲み込んだようだ。
 オーフェン——今はそう名乗っている。ここ数年の通り名であるその悪趣味な名前を、これから一生名乗り続ける予定であるらしい。人違いが絶対に起こらないであろうという意味ではいい名前かもしれない、などと思う。まさか孤児などと名付ける親はいないだろう。いたとすればなかなかの神経である(自分がその家庭の近所に住んでいたなら、ひとしきり面白がった挙句、なるべく付き合いを避けようと心を決めるに違いない)。名乗った時点で偽名であると白状しているようなものだが、呆れたことにこの名は公文書にすら載った。魔王などと馬鹿馬鹿しいあだ名までつけられてだ。自分の知る別の名は、もう、彼の存在を示すものとして適当ではない。
 自分の名もまた適当ではないのではないかとも思う。
 蹂躙されたキムラック市に、あの奇妙な屋敷は、まだ残っているのだろうか。自分に姓を名乗る資格があるか否かという問題だ。今のところ、あるかないかを確かめるすべがないのだから、まだ失っていないという言い訳をしていてもいいのだろうか……
 決着のつかない疑問を追い払う心地で、サルア・ソリュードは口を開いた。
「なにか用事か?」
「ん、あ、いや」居心地が悪そうに相手は目を逸らす。「話が……でも。あとでいい。その」
「何だよ」
「……悪かった!」
 やけくそのように吐き捨てる声ののち、勢いよく叩きつけられた扉が派手な音を立てて閉ざされた。予測はしていたものの、激しい空気の振動を浴びて反射的に一瞬目を瞑り——そのあと、ゆっくりと目を開く。
「メッチェン」「なあに?」
 のんびりとした声が耳をくすぐる。そういった距離だった。彼女はこちらの胸に頬を擦りつかせたままで笑う。
「悪いことしちゃった」
 台詞に反して、その声には得意げな響きが含まれている気がした。授業をエスケープした学生が、ぺろりと舌でも出しているかのような。
「悪いなんて思っちゃいねえんじゃねえの?」
「そうよ」
 言い切った!
 少しははぐらかしてくるだろうと思っていたのだが。瞠目して見下ろすこちらをよそに、女はその口元の微笑を崩さない。「だから、悪いこと。でしょう」
「ううむ」同意していいものか迷って視線をさまよわせる。柔らかい身体が間近にあるどころか密着しているこの状態に、悪い気などするはずがないのだ。女の両腕は肩を通ってうなじに触れている。悪いことといえば、ここが自分たちふたりの私室として使っている部屋であること。よりにもよってベッドの上だということ。仕事の話をしようとしていただろう男の存在を無視して、しなやかな女の腕が自分をつかまえたこと。
 自分の身体が陰になって、オーフェンからはその腕しか見えていなかったかもしれない。
 メッチェンの肩に、淡い色をした細い肩紐が引っかかっているのは彼から見えただろうか。
 彼女は薄手の部屋着姿だ。椅子でうとうとしているところを見つけてベッドを使えと促したところ、完全に寝入ってしまうと困るからと拒否され、軽い問答の末、なぜか自分がそばで眠らないよう監視するということになってしまった。妙な駄々は寝ぼけているせいだろうから、しれっと寝かしつけて小一時間たったら起こせばいいかと思っていたところに扉がノックされ——。
「……どうした?」繊細な砂糖細工にでも触れるような気分で彼女の髪に触れた。言ってから、言葉が足りていないと気づく。この手の質問をする場合、慎重になるにこしたことはないが、あまりに曖昧すぎる。
「どうって、なにが?」
 案の定訊き返してきた女に対して、質問を重ねる。
「わざとあんなことするなんて、変な感じがしたからよ。体調でも悪いのか」
 メッチェンはゆっくりとまばたきをしてから返事をした。「平気」
 腕がほどかれた。珍しいといえば、わざわざ両腕を使っていたこともそうだった。彼女の右腕は上げ下げする程度に問題はなくとも繊細な動きはできなくなってしまっているし、疲れも溜まりやすいようだった。本人も意識しないまま、おかしな力がかかってしまっているのだろう。いたわる手つきで肘から先を撫でてやる。
 そのまましばらく無言でいた。もう一度、メッチェンが身を預けてくるまで。
 彼女はこちらのシャツの裾を弄びながら唇を尖らせた。「彼、行儀が悪いんだもの」
「うん?」
「いくら急いでいても、扉を開けるのなら、返事くらいは待ってくれないと、困るわ。つい意地悪しちゃったのは……反省してるけど」
「常に間の悪い奴ではある——」
 語尾は自然と小さくなった。シャツをいじっていた細い指先が、裾の方からボタンを外しているのに気がついてしまったからだ。もともとあまり器用ではないようなのに、さらに右手がきかなくなってしまったせいで、彼女の手つきは危ういのだった。少し間違えれば引きちぎってしまいそうである(着替えのたびにいらいらするからと言って、本人は頭からひっ被る服ばかりを着ている)。
「おい」「意地悪はよくないことだけど、嘘だってよくない。だから」
 本当にしてしまいましょう。
 メッチェンはおそろしいことに本気のようだった。今日これからの予定はないとはいえ、まだ日も高いのに。ボタンを外すのを諦め、胸を押してのしかかってくる。そもそも、冗談を言うような女でもないのだけれど。
「眠かったんじゃなかったのか」
「眠いけど」
「いいのか」思いもよらないことばかりで確認せずにはいられなかったのだが、相手はどうも別の捉え方をしたようだった。
「なによ。嫌なの?」不貞腐れた顔で見下ろしてくる。
「んなわけねぇよ」
「そう」ならいいわ。
 ふわりと笑った女がくちづけてくるのを受け入れて、しっかりと腰を抱く——長くかかることを予感して。婚約した当初は、ただ体面を保つためだけの書類上の関係だと考えていそうだったのに、一度肌を重ねてからの女はやけに情熱的だった。
 まだ現実が信じられないとでも言いたげだと思う。何度も彼女の名前を上から書きつけて、この手が彼女のものになることを、懸命に確かめているような。
 悪い気はしない。ああ、全く、悪い気などしない。少し心配にはなる。安心させてやれていないのだと感じ、恥じるような気持ちにすらなる。
 つまりはいとおしいと思うのだった。
 なにを誓えば彼女は自分を信じてくれるだろう。なにを与えてやれるだろう。なにを根拠に? 明日をも知れぬこの身で?
(どうだろう)確かな重みを感じながら、ぼんやりと思考を巡らせる。
 キムラック市の実家について——建物は焼き払われたかもしれない。だが願わくば、地下室のみでも残っていることを期待しよう。どこもかしこも兄の持ち物だったあの家で、地下室の主ならば確かに自分だったような気がするのだった。あの部屋に関する最後の記憶は、血まみれの……完全に事切れているとわかる兄の身体が横たわる、悪夢まがいの光景で、なかなかに嫌なものだが。今はまだ、自分に権利があると主張せねばなるまい。土地や財産が果たして女の手を握るうえで必要かどうかは一考の余地があるだろうが、ないよりはいい。絶対に。
 人間は生きていくのだ。
 なにがなんでも新天地を得ねばならない。静かに誓う。
 そして名前をつけるのだ。

Drifter/キリンジ

なんか以前もこんなこと書いたなって思いました(名前のくだり)。あとDrifterいい曲っていうか超名曲なのとサルメ夫妻はこんな感じだよなあと思います。別に意識したわけじゃないけど書いてたらそんな感じの話になったからついついタイトル借りました。オーフェンさんごめん。