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背約者たちの冷たい夜

 地の底からやってくる、堕落への誘惑。それが悪夢だとキムラック教典は語る。
 それは心の隙間に入り込み、体内に不安の種を植える悪しきもの。女神の民たる我らにおいては、床についている間にも行うべき神聖なる祈りを中断させる、忌まわしきもののひとつである。それに悩むなら祈りを捧げよ。真摯なる祈りの力は悪夢さえ退ける。星々の瞬きの下で悪夢に泣く子が、その未熟さゆえに女神を知らぬならば、無垢なる魂が惑わされぬよう、近くにいる者が代わって祈りを捧げよ。讃えよ。
 女神を讃えよ。……
 その言葉は、あの街で教師となるずっと以前──それこそ、この世に生を受けた瞬間から常にそばにあった。そうメッチェンは確信していた。自分だけが特別なのではないことも。思い出すのは、懐かしいキムラックの街並みだ。あの都市に産まれた者に誰一人として例外はいない。今、傍で眠るこの男もそうだった。彼を目の前にして、まずは息をひそめる。次に、慎重にベッドの上をあとずさる。彼の身体に触れないように距離を取るのだが、夜の暗闇に彼の姿が隠れてしまわない程度に留めておくことが重要だ。眠る姿を観察するための準備である。じっと目を凝らし、開始する。
 呼吸が浅い。
 息を継ぐ間隔も通常よりかなり狭く、不定期になっている。わななく唇からはうめき声がかすかに洩れだし、眉間に深く刻まれた皺が時折ぴくりと震える。夫は、今まさに、真摯なる祈りの敵──悪夢に襲われているようだった。そして、自分はそれをただ見ている。
 祈ることはしない。彼は、教典にて示される幼子でも、彷徨い手助けを求める者でもないからだ。彼が真に女神を信じる者ならば彼なりに祈る術を知っているはずだった。たとえ妻とはいえ、彼と女神との間に入る余地はない。静かにじっと待つ。
 こういうときのサルアは、ほとんど声をあげない。ただ歯を食いしばり、身体を縮め、胸元を掴んで静かになにかに耐えている。それがかえって痛々しく思え、当初はすぐに揺り起こしていたものだった。たいていの場合彼はすぐに覚醒し、誤魔化すように笑ったものだ。うなされてたって? 変だな、背中に虫でもいたんじゃねえの。そんな言い訳をする。
(平気なふりがしたいのよね、あんたは)
 嘆息すらも飲み込んで唇を結び直す。眠りの淵で苦しむ男に気付かないふりをするようになったのはそのためだ。あまりにも回数が増えたからでもある。そもそも本人が詳細を語ろうとしないのに、解決のしようもない。
 つくづく因果な職業だと感じる。問われなければ答えようがない。必要とされない説法など無価値である。夫はあまりそうとも思っていないようだが。
(聞いた時は無意味と取られてもいいのさ)これはいつ聞いた言葉だったか。(だけど、必要なとき、必要なものを取り出せるよう、満遍なく準備しておいてやる。もともとないものを出そうったって、なかなかできんもんさ。役に立たない、どぶに捨てられるかもしれない指摘でも、気づいたときに言っておいてやるのが教師の務めってもんだ……)
 そこまで言った夫が、彼自身の真剣な表情に気づき、慌てて鼻をこすって明後日のほうを向いたことも覚えている。サルアは——本来、そういう考え方が自然にできる、思いがけず伴侶となった男は——。
 瞼を開けていた。
「……」
 身体を起こしているわけではない。まだ夢うつつだ。焦点の定まらない瞳がぼんやりとこちらを見つめている。動揺を隠せないまま、メッチェンはかける言葉を探した。 が、なにかを口にするその前に、夫の唇が淡く微笑んだ。
 済まん、と、小さな囁きが耳をかすめる——許せ、と続き、今度こそ脳が活動をやめる。
 白くひび割れてゆく頭の中に、「まただ」という思いがひとつ、ぽつりと青く翳りを帯びてたゆたう。彼の口にのぼるのがなにについての謝罪なのか、問うたことはない。自分にできることはただ一つ。沈黙することだけだった。
 彼は言葉通りに許しを乞うているのではないという直感が、すべての言葉を喉の内側へ押しとどめている。
 かろうじて──ぎこちなく微笑んで受け入れることくらいしか、なすすべはない。祈りなど、厚顔無恥というものだった。
(信ずるべき教会に背き、聖なる故郷を棄てたおまえたちに、女神の加護は届かない)
 耳元に鳴り響く声から逃げ出すために、傍の体温にそっと身を寄せた。触れるか触れないか——しかしほのかに存在を感じられるぎりぎりの距離でしばらくじっとしていると、いつしか、揺らいでいた呼吸音が規則的になり始める。夫は今度こそ深い眠りについたようだった。おそらくは朝の光がカーテンの隙間から部屋の床を照らし出すまで目覚めないだろう。その確信を得て、やっとその胸に額を擦り付けることができる。
 これもまた、夫には見せられない姿だった。弱さを見せれば必ず気に病むだろうし、それ以前に自分が耐えられない。彼になにを求めているのか、自分自身、もうわからない。
 自らの内側にうごめくものから逃げおおせる方法もない。
 早く夜明けを、太陽をと切望しながら呼吸を震わせた。いつかどこかへたどり着けるのか。暗闇で泣く女ひとりに、わかるはずなどないのだった。