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ミナソコ/ニジイロ/アイロニー

 まったくあの船長ときたらまたわけのわからないことを言ってひとを弄ぶのだから。
 昔よりはまだいい。奴のせいで生命の危機にさらされるようなことはない。ただし、あの男がなにかしなくても、今の自分は常に死への道に片足を突っ込んでいるようなものではある。この船上のすべての人間が生命を得た場所、キエサルヒマ——その外海を超えてたどり着くはずの新大陸は、まだ影も形も現さない。
 自分とて、この旅が恐ろしくないわけではないのだ。だが信じるよりほかにない。
(行くも帰るも、どちらも危険、となるとな——)
 ならば、少なくとも希望のある方に進んだほうがよいだろう。
(微々たるもんだが)
 誰に向けるでもなく苦笑して。
 オーフェンは足を止めた。自分に割り当てられている小さな部屋にもどる途中で差し掛かったのは、簡素なテーブルと椅子をいくつか並べた会議室……兼、食堂だ。見知った顔がひとりで椅子に腰掛けている。夢を見ているときの子供のような顔立ちをした女だが、今は本当に眠たげだった。小さくあくびをしている彼女のもとに近寄る。
「なにやってんだ?」
「待ってるの」
 表情と同じく、ぼんやりとした声でメッチェンは言った。
 彼女の視線を追って顔を横へと向ける。気配自体には気がついていたのだが……
「あれをか?」
「意外といけるのよ」
「う、うーん」
 どのようにも言いがたく、複雑な顔でうなる。
 律儀にエプロンなど身につけてキッチンに向かう男女の背は、それこそ見知ったものだ。ほっそりとした娘、クリーオウ・エバーラスティン。
 彼女が食事係の手伝いをしていること自体は珍しいことではない。
 船に乗り込んだときの騒動があまりに派手だったうえ、その際《魔王》の知己であることが知れ渡り、航海初期は船員の誰もに遠巻きにされていたようだったが、生来の明るい性格と他者を巻き込むエネルギーを如何なく発揮して、近頃はキムラック教徒の面々ともすっかり馴染んだようである。
 問題なのは、彼女の隣に肩を並べる男だった。サルア・ソリュード。この開拓団の長たる彼が、なぜこんなところで包丁など握っているのか——いくら計画の中核たる人物とはいえ、潜舵の心得があるわけでなし、こうして海の上を駆けている間はやることもないといえばそうなのだけれど。
 クリーオウとなにごとか話をし、時折大笑しながらも、彼の手は迷いなく作業台の上を踊っている。確かに手慣れてはいるようだ。
 ふと気になって尋ねてみる。「あいつの料理を食べたことがあるのか?」
「けっこうあるわよ」宙を仰いで、メッチェン。「ふたりで任務に出ることもあったから。出先でよくわからない食べものを見つけるとすぐに手を出したがるのよね。宿の調理場を長々と占領したせいで、泊まり客の食事をつくるはめになったこともあったかしら。味に関してはやたらうるさいし、一緒のときは面倒くさいからずっと任せっきりだったわ」そこそこ食べられるものならなんでもいいのに、と顔に書いてある。
「そいつはよかった」適当な相槌を打ってから一旦唇を結び、そして開いた。「……よかった」
「なにそのしみじみした言い方。よかったの? なにが?」
「いや、なんでも」
 数年前に辿った旅路では、食事のたびに戦々恐々としていたのだとは口に出さない(キッチンまでこちらの会話が届いていたとしたら、なにを食べさせられるやら)。
「しっかし、なんでいきなり料理なんだ。ふたり揃って」
「暇なんでしょ」身も蓋もなくメッチェンは言い切った。「なんだか、魚料理はあんまりしたことないから研究するんですって。それで手始めに、今朝、食料調達班の子たちが釣り上げた魚を一種類ずつ解体しているところね」
「さばいてるとかおろしてるって言ってくれねえか」
「だってあの子たち、内臓の位置を逐一チェックして、まな板の上に並べて標本にしてるのよ」
「あ?」
「作業台が血みどろなんだけど、ちゃんと片付ける気があるのかどうか」
「うっ」
「無い方に賭けるわ」あっさりと言ってくれる。「お家では、散らかしっぱなしでも、勝手に片付いてたんでしょうね」
「ああ……」メッチェンはサルアについて語っているのだろうが、オーフェンが思い出したのは、トトカンタ市にそびえるエバーラスティン家の門構えだった。重厚な建物の高い天井からはシャンデリアが吊り下がり、敷地はもちろん広大で、住み込みの使用人を常に三人ほど雇っていないと掃除が行き届かないのではと思われた。
 目を閉じてうめく。「あいつら、けっこうな富豪の生まれのくせに、なんで自炊なんて得意なんだ? 花嫁修業か?」
「さあね。包丁なんて剣と同じとでも思ってるんじゃないの」
「さすがに乱暴すぎないか」
「柄付きの刃物よ。一緒よ。なんでかろくに扱えないけど」
「……」大雑把にすぎる物言いに、個人的な恨みが混ざっていることを察して口をつぐむ。
 立ち働く二人の背を眺め、メッチェンがつぶやく。
「そうね。いい妻を持ったわ」
「亭主だろ」
「あら、花嫁って言ったのはあなたじゃない」
 メッチェンはにやにや笑って片手で頬杖をついた。袖の長い服に口元が隠れ、それだけで彼女の表情は読めなくなる。だが、瞳がきらりと輝いたように見えて、それに目を奪われる——漏れたため息は甘やかだった。
「出来過ぎよね。本当」
 独白じみた囁きに、なにを返していいのかわからずに——むしろまったく別の話題を振ったほうがいいのかもしれないと思い至った瞬間。
「何の話だ?」
 突然割り込んできた声に顔を上げる。
 小さな皿を片手に乗せて、サルアが近づいてきていた。キッチンのほうではクリーオウが鍋を火にかけようとしている。
 思わず声をひそめた。
「頼むからあいつをひとりにするな」
「……本当に何の話だよ」怪訝そうな顔で言うサルアだが、追求はしてこなかった。手にした皿をこちらに差し出してくる。「お前、ちょっと食ってみろ」
「ん?」さて、彼の腕前はどんなものかと皿を覗いて、目を瞬く。「生じゃねえのか、これ」
 特に海の魚は、新鮮なうちならば、熱を通さずに食べることもあるとは知っていた。しかし、いきなりつやつやとした切り身を見せられても、今から調理するための材料にしか見えない。
 が、サルアは自信ありげに言う。「釣ったばかりだから大丈夫だ。うまいらしいぞ」
「なんで伝聞調なんだよ」
「俺ァ生でなんて食ったことねえもん」
「そんなもんひとに食わすな!」
 わめいて皿を押し戻すが、サルアにこたえた様子はまったくない。
「毒味だ、毒味」ひょいとかわして、今度は鼻先に突きつけてくる。「とはいっても、内臓から遠い部位の身だ。めったなことはないだろうが……」
「安全確認は自分でやれ」
「それで俺が腹をくだしたら誰があの魚の始末をつけるんだ」
「そりゃ、クリーオウが——」
 どうにかするだろ、と言いかけたところで。
「ねえっ!」部屋の端から、そのクリーオウの声が飛んできた。「遊んでないで教えてよ。これからどうするの?」
「おう、ちょっと待ってな!」振り返って答えたサルアが、今度はこちらに向き直って指をさしてくる。「お前らもここで待ってろよ。火にかけてるのはちょっと時間がかかるが、すぐ試せる調理法にも、いくつか心当たりはあるんだ」
「はいはい」メッチェンがひらひらと手を振る。「楽しみにしてるわよ」
「ん」満足げに笑んだサルアが踵を返す。その背を眺めて額を掻いた。
「……待ってないと駄目かな、これ」
「別にどこかへ行っていいと思うわ。ただしその場合、確実に拗ねられるわね。両方に」
「やっぱりか」
 深く息をつき、オーフェンは仕方なくメッチェンの隣の席に腰を下ろした。この大海原と比べればあまりにちっぽけな船の上で、急ぎの用事などあるわけがない。近しい人間の機嫌を、ふたり同時に損ねるくらいなら、ここで暇な時間を過ごすほうがよさそうだ。
 と……
「行かないのね」
「え?」隣を見やる。メッチェンは先程からと同じように視線をキッチンのほうへ向けていた。彼女の見つめる騒々しい光景とはまったくかけ離れた、感情の読み取れない横顔に向かって尋ねる。「なにか邪魔だったか」
「いいえ。どちらの可能性が高いのかと考えてはいるけど」
「?」
「あなたが席を外したら、わたし、あの子のつくった料理をひとりじめできるかもしれない。でも、あなたにも食べさせるつもりだったのにと言って、取り分けて行ってしまうかもしれない。ね、どちらだと思う?」
「……君が腹を減らしてることしかわからん」
「ふふ。そう」
 メッチェンの、夢を見ているような瞳が、笑って、そしてゆっくりと瞬く。
「おなかがすいてたの。子供の頃から。ずっと気がつかなかったけど。気が付いたのはあの子のおかげ」
「そうか。ところで俺はものすごい惚気を聞かされているのかな」オーフェンは正直な感想を告げてテーブルに向き直った。サルアがどさくさまぎれに残していった小さな皿の中身を指先でつつく。ふよふよとして頼りなく、どのような食感なのか、想像がつかない——知りたければ、実際に食べてみるほかにない。ふむ、と唸って、ひと切れつまみ上げる。力加減がよくわからない。
「わたしは、あなたのせいでもある気がしてるわ」
「ん?」生魚の切れ端を口に運び入れていて、そんな声しか出せなかった。味は案外悪くない。
 こちらのことなど構わずにメッチェンは続ける。
「だってそうでしょう。あなたが籍をいれろと言ったのよ。まったく、変な勘違いして。……仕方がなかったんでしょうけどね。でも、それで……わたしはこうなった。それはいいの。よくわかっていなかったけど、なってみれば、悪くないわ」
「……」
「でも。わたしからあの子を取り上げるのも、いつもあなただわ」
 メッチェンはくすくす笑う。
「魔王——そうね。わるいひとだわ。まったく」
「……そうかなぁ」
 曖昧に濁す以外、とるべき態度はわからなかった。キッチンは相変わらず騒がしいが、食欲をそそる香りも漂い始めていた。空になった口の中にもうひと切れ魚を放り込む。
 言葉を噛んで解きほぐす舌の上で、うすく潮の味がした。