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千尋の谷の向こう岸にて

 健全なる男性に分類される肉体と精神を持ち、そろそろ青春時代も遠くなってきたわけだから、聞くに堪えないとまではさすがに言わない。だがなぜかそういった下世話な話題とは無縁と思っていた男が真顔でべらべらと際どい単語を口にのぼらせる光景には、気が遠くなるような思いを抱かざるをえなかった。何年経っても慣れない自分もどうかと思うが、もしかすると彼の発するその声には自動的に自分の意識を朦朧とさせる効果があるのかもしれない。なぜか上司どもの酒の席に付き合わされたうえ自分の狭い宿舎に押しかけられている事実から考えても、可能性はある話だ(さすがに出先ではそんな話はしていなかった気もするがやはり記憶が曖昧である。声音と話題のコンビネーションに催眠作用がある可能性は一気に高まった)。というか、こちらは下戸なので本当にやめて欲しい。宿酔いの男どもを引きずって行った先々で、それぞれの妻の寄越すぬるい視線に、なぜか一緒になって耐えなければならない理不尽を考えたことがあるのだろうか、彼らは。
「でもこいつさあ」
「はい?」
 二人と同じく冷たい床に直接座り込み(椅子が足りないのだ)、ちまちまと保存食をかじっていたところに声をかけられて、半分閉じかかっていた目蓋を上げる。杯を傾ける市長を指差して校長が声をひそめた。
「女みてえな喘ぎ声してる」
 吹いた。サルアが。
「きったないなもう!」
「うっせえ文句はあっちに言え!」
 思わずあげた悲鳴に対して返ってきたのは罵声だった。むせながら、涙目で口元を拭っているのを横目に、上司のほうへと疑問を投げかける。
「なんであなたがそんなこと知ってるんですか?」
「隣部屋だった時期があってな。まあいろいろ聞こえるわけで」
「なんで隣に人がいるのわかっててそーいうことやっちゃうんですか? 特殊性癖でもあるんですか?」
「新婚だったんだよ察しろ。……っていうか女みたいってお前」
「真面目な感想だが」
「ええ……?」顔を苦々しく曇らせて、サルア。「んなことねーだろさすがに」
 対してオーフェンはといえば、変わらず平坦な表情だ。「自覚がないならさせてやってもいいが。マジク」
「はい」彼の身振りに身体が勝手に反応した。あれ、と思う。なんでぼくこの人のこと捕まえてるんだろう。
「ああ?」いきなり羽交い締めにされたサルアからしてもちょっと不可解なことだったろう。「おい、何を——、うわははは!」
「えっ」
「っちょ、やめ、ろ!」
「ちゃんと押さえてろよマジク」「は。はあ」唐突にくすぐられ始めたせいで大暴れする身体をなんとか押さえつけながら困惑した声で返す。なんなんだこれは。酔っ払いのやることを、深く気に留めても仕方がないのだが——
「——っあ!」
 ぎょっとして腕の中に視線を落とした。もともとシャツの襟元はサルア自身で開いていたはずだが、いつの間にかすべてのボタンが外されている。彼の足を押さえてにやついているオーフェンがやったに違いない。その右手がシャツの下に潜ってどこを探っているのかも、あっさりと理解する。
「あっ……や、っめ、ろ……って、ん。ん」
 自分からは真っ赤に染まった耳しか見えないが、おぞけを覚える理由には充分だった。
「うげえ」
「だー! もう、んな風に! 思うならこいつ止めろ! って! あ、も……っ。は、ぁっ」
「ぼくが止めてどうなるもんじゃないでしょう、この人が」
「よくわかってんじゃねえか」目を細め、楽しげに笑う。「な? いい声してんだろ、こいつ」
「なんて返せば正解なんですかそれ。……あーあ」身悶える身体をつい完璧に押さえ込んでしまっているのを遅れて自覚し、戦闘家として訓練されきっているのも一長一短だな、などと思って少しだけ拘束を緩める。というか、これはどうやったら終わるのだろう。おそらくオーフェンが飽きればいいのだろうが、そろそろ男の喘ぎ声を聞いているのも辛くなってきた。
 だから自分が校長の真似をしてしまったのも単に暇つぶしとか気が向いたとかそういうことで、興味があったわけでは断じてない。
「ん、ぅ」
「……」自分の指先の行方をオーフェンが見ていたことはわかっていた。しばし間を置いて、彼がふと表情を消す。シャツの下で手が蠢き、サルアの肩が跳ね上がる。
「っあ! や! う……っ」
「まったく」にやあ、と人を食った笑みが再び浮かんだ。「堪え性のねえ奴」
「うるせ……、っ、ん——!」
「ん」
 濡れた音がして、サルアの声が小さくなる。オーフェンの、傾けられた顔と、おのずとさらけ出された首筋、火照った肌を撫でる手……
(……なんで?)
 目の前で繰り広げられる光景に絶句して思わず力が抜けた。しばらくはサルアにも動揺があったのだろう、腕の中から抜け出そうとするそぶりもなかったが。拘束が緩んだことに気づいたか、ついにオーフェンを蹴り飛ばす。
「ぐっ、げほ……っ、……てっめえなあ!」
「わー、悪ィ悪ィ!」
 むせながらも掴みかかる男と、声をあげて笑いながら逃れる男の馬鹿二人から、床に転がっていた食器類を慌てて遠ざける。「なんなんだ、あんたら!」どちらも聞いていないだろうとわかっていても怒鳴りつけざるをえなかった。
(ま。いっか)嘆息し、二人の大騒ぎを遠くから眺める。なんだか恐ろしい場所に踏み込んでしまっている気もするし、すさまじく悪寒はしているが——このところ難しい顔ばかりしていたオーフェンが、友人の手で絞め殺されそうになっているにも関わらず、ひどく上機嫌なので、なにも考えず、しばらく放っておくことにした。
 どうせ、自分ごときが止めようと思っても止められない男なので。