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できそこないの星

「おかえり」
 二階へ続く階段の上から声が降ってくる。足音は聞こえていたから、彼の存在には気がついていたのだが。
(あえて無視してるって、どうしてわからないのかね?)
 やれやれ、と眠たい目を動かして見上げる。「おう、弟」笑いかける相手の鋭い瞳は、今のようにしかめられていなくても、自分のものとは似ても似つかないのだが——、とりあえず、家族。である、と。
 そういうことになっている。
「おう、じゃねえよ」彼は苛々とした調子で壁をこつこつ叩いた。「何時だと思ってる」
「いやあ、知らねえけど」腕にはめた時計を見もせずに笑ってやる。幼い子供をなだめるときの顔を意識した。「明るいからとりあえず朝だろ。お前、早起きだなァ。いい子、いい子」
 せっかく兄貴のいない日を狙って帰ってきたのに面倒臭い奴だ、とは言わなかった。
「ああそうさ。悪い子の行方が気になってね、夜も眠れなかった」
「へえ?」
(あ。駄目だ)直感する。表情が保たない。
 こみ上げた失笑を察知したのだろう。漂わせていた不機嫌さに輪をかけて、彼が階段を伝って降りてくる。響いたため息からして、また二、三日の間は口もきかないだろうと思い、体を傾けすれ違おうとする。
「何」
 腕を掴まれて目を瞠った。間近で見る弟のしかめ面は驚くべきことに口を開いた。「やめろ。こういうの」
「朝帰りなんて今日が初めてじゃねえぞ……」
「化粧臭え。メッチェンじゃねえな。どこの誰だ」
(なんであいつが出てくんだ)
 想定外の名を聞いて、自分の顔も気色ばむのがわかる。だが喧嘩を売っているのはあちらの方だ。
「誰でもいいだろ別に」
「よくない」
「お前、なんの勘違いしてんだよ。別に俺とあいつはなんでもない」
「……」
 納得がいかないのか、腕を掴む手の力は緩まない。仕方がないので睨みつける。
「離せよ」
「嫌だ」
 かわいそうなほど思いつめた表情を見せられて、つい口が滑る。「あれか? お前、あいつに気が」
 みなまで発声できなかった。
 壁に肩がぶつかって跳ね返り、やっと頰を殴られたのだと気がついた。
「不誠実なことしてんじゃねえぞ。このどアホ」
「はあ……?」罵倒を受けて思わず唇がゆるむ。壁に寄りかかって剣呑に口角を釣り上げた。「一応、そのアホは、お前の兄てえことになってんだが」
「知るかよ。アホをアホと言って何が悪い」
 そう言って、今度は蹴りつけられる。ブーツの先が抉ったのはさすがに壁が相手だったが、音の響きから想像するに、生身の腹を抉っていればとんでもないことになっていたに違いなかった。そんなものを人に向けるなどと彼も彼で考えなしのような気がする。
 だが、それを指摘するよりも、こちらのゆっくりとした仕草を強調することのほうが重要に思えた。気にしていないという風に演じることが、だ。腕を組んで顎をしゃくる。「年長者への敬意ってもんが感じられねえってんだよ」
「敬われる行動をとってから言ってもらいたいもんだな。言っておくが、あんたを兄と思ったことはない」
(だろうよ)胸の中でうなずく。
 彼がこの家に寝起きするようになってしばらくして、逃げ出したのは自分のほうだった。たまにこうして帰宅しても、陽のある時間はほぼすべて自室に閉じこもって過ごした。最初は交わしていた会話もすっかり少なくなった。彼に兄と呼ばれるようなことはひとつもしていない。
(とんでもなく出来のいい義理の弟なんてのが、面白いもんか)
 目を細めてその姿を眺める。やたらと目立つ険悪な瞳さえ除けば、取り立てて特徴があるわけでもないただの少年だ。だが、彼が自分の居場所すべてを奪っていったとさえ思う。なんでもないような表情と、あっさりと増える賞状の数が背を追い立てたのだ。彼の積み上げる成績が、自分たち上級生の間でさえ徐々に話題にのぼり始めた頃——懸命に握りしめていたはずのなにかが崩れて砂となった。そしてこの有様だ。
 最初からこれが自然な姿だったのだろうけれど。そう思う。
「あんたは」
 それでも、彼の声音は言い含める調子だ。
「あんたはこの家の息子だ。余所者の俺とは違う——」
「文武両道の名門ソリュード家は、どうにも凡庸な次男をついに見放して、血筋を才能に売り渡した」
「……は?」
「最近の有力説だ。知らねえなら覚えときな」正直なところ、頭に上った血はすでに冷めていた。口さがない同級生のする噂を否定する言葉を自分は持っていない。
 事実なのだから。
「おい」
「眠いんだよ。風呂にも入ってねえ。寝かせろ」
「待て!」
 背後から飛んでくる声を無視して浴室へ向かおうとする。なんだよそれ、とうめく義弟の混乱が少しでも長く続けばいいとほくそ笑む——が。
「……っだよ!」
「待てっつってんだ」
 手首を掴んできた少年のポーカーフェイスを睨みつける。だから嫌なのだ。やっと少しは揺らがせることができたと思っても、彼はすぐにこうしてもとにもどってしまう。見せつけられている、などと思う。そんなはずはなくても。
「やけに絡んでくるな、今朝は。ええ? いったいどういう風の吹きまわしだ?」
「理由を言えばきっと呆れるさ」
「どうかね。言ってみなきゃわかんねえぜ」
「いいや、わかる。なんてったって、俺が俺に呆れるくらいなんでね」
(どうでもいい)
 破壊的な気分で掴まれた手首を見つめる。視線が力を持つのなら、骨折でもしていそうな強さで。だがそんなことは起こりうるはずもなく、そこにはただ己と他人の手が重なっているだけだった。「ったく」これ見よがしに嘆息し、にい、と笑った。
 彼の話を聞いてやれるような気分はすべて使い果たしており、さらには寝不足によって思考回路は壊れていた——と、そう言い訳をしようと思いながら顔を上げる。
「俺の方は挨拶を済ませていなかったな。おはよう、キリランシェロ」
「え?」
 驚愕に見開かれる瞳を眺めていてもよかったが、どうせすぐに突き飛ばされるだろう。そして今度こそ蔑んだ目を与えられるはずだ。彼は金輪際話しかけて来なくなる。万が一、家から出て行ってしまわないよう、その前に自分が荷物をまとめなければ……などと考えられる程度の時間、なにも起こらなかった。どうしてか。
(……そうか)義弟の初心さをやっと理解して、押し付けていた唇を離す。「よう。キスは初めてかい」
「……!」
 かあ、と赤くなる顔に笑いかけてやる。そうとわかればやりようはあった。腰を抱き、頰を撫でて囁く。「口開けな」
「な、あっ」
 なにか言いかけた声を直接飲む。唇を揉み、歯を探る。初心者には少々しんどいかもしれないが、このほうが面白いしなという軽い気持ちだけで深く舌を吸い上げる。案の定、苦しげな吐息を漏らした相手の腕が背中を叩いた。それでも口付けをやめないでいるとその手は徐々に力をなくして震え始める。まさか、完全に縋りついてくるとは思っていなかったが。
「馬鹿野郎」
「あん? 誰が……」
「お前以外に誰がいる」
 首筋に相手の片手がひたりと這った。その掌の熱さに思わず身体が跳ねる。シャツを握っていた手はそのまま肩甲骨を探り始めた。荒い吐息が今更耳につく。「不誠実をするな。俺の前で隙を見せるな。頼むよ、サルア。抑えがきかなくなるだろう」
「抑え?」
「……言わせるな。俺だって、気の迷いだと思いたいんだ……」
 引き剥がされたのは自分のほうだった。目を見開いて硬直するのも。沈黙で満たされた、その場に取り残されるのも。義弟は後ずさりをして足早に逃げ去った。
(兄と思ったことはない)
 静かな声が耳に蘇った。

誰だお前ら感はやはり否めないな……