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融解して残るのは

「よう。精が出るな」
「てめえはサボってんじゃねえよ」
 戸口に寄りかかってこちらを眺める男の手の中を指差してうなる。琥珀色の液体はすでに半分ほどに減っていて、おおよそ日のあるうちに見てよい姿ではないはずだ。嘆息し、事務机から立ち上がる。書類をまとめて揃えていると、横に立つ気配がした。
「お前さんは少々息抜きをすべきだな」
「んな暇があったらとうの昔にやってるね」
「そうか? 自分から忙しくなろうとしてんじゃねえか?」
「何が言いたい」
 顔を上げて隣を見やり、相手との予想外の距離に目をすがめた。近い。普段は、都会人らしく互いの距離を保つ男なのに。
「サルア?」
 男は答えなかった。こちらから目を逸らさないまま、グラスに口をつけて中味を含む。にわかに滲み出す警戒心は――ほんのわずか間に合わなかった。素早く口付けられる。あとから手が追ってきて顎を取られた。無理矢理に酒を喉の奥に押し込んだあとも、ぬめる感触はなかなか離れない。
「ん、く」
「ん……は、もったいね」
 合わせた唇からこぼれて顎を伝った一筋に沿って舌先が這った。他人の吐息を嗅ぎながら顔をしかめる。
「おい。これ……」
 呼びかけを無視して、グラスの中の残りを男が煽る。小刻みに上下する喉仏を見ながら、頭の芯を揺さぶる眩暈に耐えた。きつい。これは、そんな風に荒っぽく飲み下すべきものではない。
「どうしたんだ。こんな酒」
 彼の立場ならば手には入るだろう。だが、こんなものを一気にいれて平気でいられるほど酒に強いわけでもなかったはずだ。
「やってられっかよ」質問には答えず、男が吐き捨てる。
「何が」
「何が、だと。全部だよ。もういいと思ったんだ」
 彼は雑なしぐさで空になったグラスを背後のベッドに投げ出した。その手で頬に触れてくる。額を合わせて、囁くようにうなる。
「さっさと抱けばいい」
「――何を言ってる」
「んなツラでいられちゃ迷惑なんだよ。おとといみてえに、寝込みを襲われるよりゃ、このほうがな。まだましだ」
「起きてたのかよ」
「弁解もしねえのは潔いが」
 皮肉げに笑って男は頬に当てていた手を滑らせた。
「キリランシェロ」久々にその旧い名を呼んで、男の指が髪を絡める。「もっと間違う前にこけておくべきだ。そうだろ」
「間違う?」
「ああ、そうだろ。無理矢理やられちゃたまんねえよ」
「あんたはそれでいいのか」
 睨みつけると男は目を細めた。
「気を遣ってるつもりか? だとしたら、遣いどころを間違ってるが」
「本当にいいのかと聞いている。まさかあんた、自分の立場を忘れたわけじゃないだろう」
「てめえが何かも忘れちゃいないぜ。もう、今更だ」べろ、と舌を見せて男は笑う。「お前は自分が何者なのか、忘れてたのかもしれねえけどな。今まで加護があったかどうかもわからんが、俺は女神に見捨てられた。確実だ」
「――」
 それがどういうことなのか、自分に完全に理解できるはずもないのだが。
 黙り込んだこちらになにを思っているのか、男は艶めかしい仕草で絡み付いてくる。
「深く考えんなよ。早くしろ。目が醒めちまうだろ」
「あんたをそうしたのは俺か」
「お前のせいじゃない」
「でも」
「面倒くせえ奴だな」身を離し、こちらの顔を覗き込んで男は囁いた。「溜まってんだろ。やれよ。俺は気にしてないし、息抜きすべきだって言ったろう」
「俺は」
「キリランシェロ。俺はお前とは……」
 みなまで言わさず腕を掴んだ。
 乱雑に引きずってベッドに突き飛ばす。乗り上がり、肩を押さえ付けて唇を奪う。なにも言わせないために。舌に絡まるアルコールの気配で、わずかながら理性が薄まる。そうだな、と、先程男が吐き捨てた台詞に同意した。酒も飲まずに、やってられるか、こんなこと。
 覆い被さる下で、男は抵抗しない。何度唇を合わせて、性急に襟元を暴こうが、膝の裏に手を入れて足を抱え上げようが、控えめに声をあげながら身体をひくつかせるばかりだ。自ら毒を呑んでおかしくなってまで、魔王に差し出すその身体。
(心を自衛している)
 おそらくはそういうことだ。芯から開けっぴろげなようで、結局、彼はなにも見せてはくれない。彼にとって自分はその相手には値しないのだ。当然だ。彼からすれば、容易く思考を読み解けるような相手に、心を許す価値はないだろう。
 では、身体を許すのは?
(憐れみか。それとも……)
 ひとは、より大事なものを守るためなら、なんだって捨てられるのだ。わかっていた。
 上ずる声がまた名前を呼んだ。
 その響きを聞きたくなかった。情熱的なふりで、また深く口付けた。