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徒花のひらく陰、艶花の舞う通り

 があん、と、鈍い音が頭の中に鳴り響いた。尻餅をつき、壁に打ち付けた後頭部からした音ではない。奇妙なことに、現実よりも空想の響きのほうがまさったようだ。警鐘である。
 だが、遅きに失したと言わざるをえない。戸惑いのせいだ。男が、あまりに余裕のない顔をしていたものだから。
(甘くなったもんだ。ええ?)
 舌の奥に押し寄せる苦い味を唾ごと呑んで、取るものもとりあえず両手を広げる。見ろ、と念じた。手のひらにはなにもない、肘まで落ちた袖に暗器のたぐいもない、まして、お前に対しての害意など欠片もない。
「落ち着けって!」
 豪奢な簪の鋭い切っ先が、致命的な場所に触れていた。怖気に耐えていられるのが自分でも不思議だ。
「何もしやしねえよ。なにを脅えてる」
 口にして気がついた。男の表情を強張らせているものの正体に。そして今、自分の裡に焦燥はあれど、恐怖感がないのは、それが理由なのかもしれないということに。耳許で在りし日の師が囁く。怒ったのか。だがその剣は届かんぞ。弟子よ。我を忘れた者の暗殺剣など、恐るるに足らぬ――。
(……いいや、師匠)
 そうとも限らない。
 いましがた自分で考えたことをすぐさま否定することに滑稽さは覚えた。師の教えを踏み付ける罪悪感も。だが、いまさらながらといえど、浮かび上がった警戒心をないがしろにするべきではなかった。相手は幼い頃の自分ではなく、自分は極致にあった時代の師でもない。狭く薄暗く埃っぽい質屋の一角、接客台の鉄格子の裏、今、自分の目の前で取り乱しているのはうだつの上がらない振りをしているだけの男だ。持つ技術を、その懐深くに、沈めて沈めて、一度は見失いさえした奴だ。彼が我を忘れるということは、凶器に酔う愚者に堕ちたという意味ではない。
 刃を交えたことはあっても戯れのようなものだ。彼の真価を見たとは思わなかった。
 誘惑は花の香りがした。彼が、市井に紛れるために嵌めた枷の重みはいかほどなのだろう。それを知ることができる。この手を……
 晒したままのこの手を振り下ろせばすぐに叶う。
 だが。嗚呼、と嘆く。駄目だ。もう駄目だ。男の目の中には、すでに理性がもどりつつあった。仕方ない。待ちすぎたのだ。
「訊いてもいいか」簪の切先から殺意が抜けてゆくのを感じながら言葉を耳に入れる。「分不相応なものを手に入れたら、どうしたらいい」
(どうしたら?)
 顔をしかめる。なんのことだかわからなかった。だが、詳細を訊ねることもまた、躊躇う。男の、奥歯にものが挟まった物言いと、深刻そうなふるまい、力は抜けたようだとはいえいまだ首筋を掠める鋭い刃の気配、そのすべてが「訊くな」と叫んでいる。逡巡はしたものの、ゆっくりと唇を開いた。
「……ものの価値をわからんふりをして、二束三文で売り飛ばすのが定石じゃあ、ねェのか。質草の値を決めるのは手前だろうよ」
「無理だ」額が落ちてきて、襟元に擦り付けられた。まるで猫が懐くようだと思う。そんな可愛らしいものであるはずがないが(なにせ、いまだに簪の先は額の触れるほうとは逆の肌を突き破る寸前だ)、くぐもった小さな声が続くせいだろう。「あれは手放せない」
「なら、多少のものを上乗せしてでも、押し戻せば良いだけだ」
「俺もそう思った」
「ならさっさとしろよ」
「もとの持ち主が拒否するんじゃ、戻せねえよ」
「ええと――なにがどうなってんだ、そりゃ」目を白黒させる。「それがなんだか知らないが、いったい価値があるんだか、ねえんだか」
「しらねえよ」
 きっぱりと言って、男はそれ以上の口を開かなかった。
 否。
 明るい音色が店内に響いて、中断せざるを得なかった。

「あれ。いないの?」
 戸口から、異人じみた外見の娘がひょっこりと身を乗り出す様子が、質流れの品として店頭に並ぶ姿見に映っているのがかろうじて窺えた。何度か見たことのある娘だ。いくらか話したこともある。淡い色の巻き毛を揺らす彼女の姿が舶来の姿見の枠に縁取られ、まるで額縁に収まる絵画のようである。こんな状況でなければ口笛を吹き鳴らして賞賛していただろう。彼女はぐるりと店内を見回して、店主の姿を見つけられないまま、ふむ、となにやら頷いた。そしてそのまま踵を返してしまう。扉を押し開けたときと同じ音が店内に響いて、娘は駆け去った。
 ふう、と息をつく男を見下ろす。
「いいのか」
「何がだ」
「何がって」本当にわかっていないのか、平然と返してくる様子に顔をしかめる。「嬢ちゃん、行っちまったじゃねェか。どうせ、これを見たって、おれが悪者にされるだけだからいいけどよ」
「あー……」
 男は視線をさまよわせる。そしてやっと気がついたというように簪を振りかざすのをやめ、無言のまま身を引いた。どう見ても危害を加えられそうになっているのはこちらなのだったのだから、少しくらい否定してもいいところだろうに。くそっ。
 悪態はとりあえず呑み込んだ。この男には言っても仕方がない。それよりも、首筋を掻きながら尋ねてみる。
「なあ。追っかけなくていいのかい」
「だから、なんで」
「なんでもなにも無えだろう」
「用事があるならまた来るさ」
「……はあ、そうかい」わかったような物言いと、むくれて目を逸らす仕種に眉を上げる。あんな箱入り娘が、こんなしみったれた店に用事などあるはずがない。「でもあれはお前に会いに来たんじゃねェか」
「でも」
 そんな台詞で言葉を切って、大の大人が見る見る膨れっ面になる様子はちょっとした見世物だった。
 溜息を吐き出して男は身を起こした。立ち上がり、掴んだままだった簪を差し出してくる。
「少し出る」
「おう、行け、行け」
 男の手から簪を受け取り、それをなおざりに振って送り出す。追い出すというほうが正しいか。鉄格子をくぐり抜け、ドアー・チャイムの音色とともに、足早に、半分走り出すくらいの勢いで立ち去る男の背を漫然とした心地で見送って――はたと気がつく。
(おい。戸締りをして行かなかったぞ)
 さすがに倉庫の奥底に厳重に仕舞っているのだろうが、右から左に売り飛ばすのもはばかられるしろものがあるのではなかったのか。呆れてつぶやく。まったく、あんな小娘に、どんな惚れ方してるんだ……
 ――どこまで俺なんぞを信用してるんだ。
 浮かんだ台詞に返す答えがなく、肩を竦める。何食わぬ顔で家捜しをしたっていい。彼奴が馬鹿を見るだけだ。そう訴えて疼く手を押し留めるのは先程の男の姿だった。彼をあれほど動揺させるものに、手を出していいものか。逡巡が重なり、ついに天井を見上げる。
 そうして目に入った、ええわたくしは安普請ですと語る細い梁に別種の不安を覚えながら考えを巡らせる。
 そうして。
 よくよくそうして。
 ――嗚呼、本当に、甘ったるくなったもんだ。
 片手を目の高さに持ち上げる。こうして見ると見事な簪だ。こいつが自分の血などで汚れてしまわないで本当によかったと、いまさら胸を撫で下ろす。
「さあて、と」
 店番の駄賃には、以前から目をつけていた細工でもねだってみせようか。それともこの簪を記念にいただくか――そう言い出せば嫌がるだろうな、と思い、どちらがより楽しいかの検討を開始した。

質屋さんのことについてもうちょっと調べてから書くべきなんですけどね……(さぼった)