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「名前の空白」

「ラッツベイン!」
 有り体に言って趣味がいいとは思えないその名を呼ばわる声の主に、覚えはあっても振り返りはしない。ただ少しうつむく角度を変えて気付かれないようにと祈った。彼がお転婆娘の扱いに四苦八苦していることや、そういう時の彼ら親子に遭遇してしまうとややこしいことになることまで既に知っていた。
 露店に並んだ装飾品を目だけで物色しながら、ふと考える。
(孤児、ねえ)
 おそらくその名に間違いはひとつもないのだろう。
 初めこそ偽名だったのかもしれない――娘の名よりも相当あからさまに悪趣味な。
 それでも、オーフェン・フィンランディの名は既に「本物」となった。なにしろ、公文書に記載されるくらいだ。彼が親から授かったのであろう名など、今となっては知っている人間のほうが少ないのではないだろうか。その中の一人である自分も既にあの名で彼を呼ぶことはなくなった。
 自分にとって、その名はほとんど禁忌のようなものだった。個人的な事情との関係はない。あの名が――自分の声で発するあの名が、いまだ彼を容易く変貌させることを知っているからだ。頼りなく、それでいて意地っ張りで、青臭い信念を曲げられずに無様に足掻いていたあの頃の彼に引き戻す、そのことに――

 凄絶とも呼べそうな笑み。肩を掴む手に込められた力の強さ。悪寒が背筋を震わせる。咄嗟に抗おうと伸ばした手をも掴まれた。
「お前にはまだそう見えているんだな?」
 一体これはなんだ。
 自問している間に視界が陰りを帯びて、

 ――人の親ではない、ひとりの男にしてしまうと知ったから。
「村長?」
 顔をしかめたことで護衛の気を引いたらしい。「いや」と頭を振って告げる。
「なんでもない。今あいつと顔を合わせるのは少々面倒だ。戻ろう」
「はい」
 上客を逃した露天商が表情を曇らせるのを視界の端に捉えながらも、肩をすくめて踵を返した。