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フィンランディ家の奇妙な獣

 歓声も野次も、祈りの言葉すらもが消えたからか、目の前の可憐な少女の視線が移動したことに気付いたときか。あるいは、集団から外れてやたらと熱心に壇上のどこか一点を見つめていた不潔な男が、かじっていた魚の干物を取り落としたのが見えたからかもしれない。
 ともかく。何が理由であれ。
 聴衆の意識が自分の喉元から逸れていることが確定したと同時に言葉を切った。
 それでついに広場は静まり返った。吹き抜けてゆく風の音とともに、何度目になるかわからない猛烈な後悔が、思考の空白に挟まって膨らむ――まったく、こんな気分とは無縁で一生を終える予定だったんだ!
「――ちょっと待てレキ――!」
 その声は頭上から高速で降ってきて、次の瞬間には風の塊に吹き散らされた。もたらされた暴風と無音の衝撃が足元を激しく揺らす。咄嗟に演台に手をついてバランスをとった。振り返った鼻の先が、そこに突き出されていた獣の鼻面にぶつかりかけて、目を白黒させながらも仰け反ってなんとか退避。なんだかまたサイズが違っている気がする黒い狼――どれだけ犬と言い張られようがこれがなんだか俺は知ってる!――その背に不格好にもしがみついている男の姿を認め、ずっしりと気が重くなる。
「……普通に歩いてくるってのが、そんなに難しいのか?」
「面倒な奴に捕まりかけたんで、つい」
 いまいち答えになっていない返答を寄越して、彼はもたつきながらも獣の背から滑り降りてきた。その顔は険しい……考え込んでいる。彼にとってもこの事態は予定外なのだと察したところで、慌てて駆け寄ってくる足音がある。
「オーフェン・フィンランディ! こんな話は通っていません――」
「よせ」可哀想に、ひどく狼狽して男に詰め寄ろうとする若い警備員を手で押し留める。歯の根があっていない。職務に忠実な彼の勇気は褒めてやりたいがそんな時間はなかった。「よほど緊急の用件だろう。文字通り飛んでくるくらいだからな」
 にやりと笑ってみせると、警備員はなぜかものすごく感動した表情になる。耳元にありえない幻聴がひらめく――〝市長がぼくに声をかけてくれた!〟いいやまさかな、と思いながら暗澹たる気持ちで苦笑いを返した。頼むからやめてくれ。
「一応走ってきたんだけどな」
 お前も黙れ。
 こちらには容赦無く睨みつけると男は明後日の方向に視線を逸らした。それでも、ざわめきが広がりつつある広場の方向にやらないのは彼の賢さだったのだろう。いまだに魔術士が視線で呪うと信じているような市民がいないとも限らない。認めたくはなかったものの、どうやらこの場を収めるのは自分の仕事というわけだ。この事態を招いた獣はといえば、我関せずといった顔で首筋を掻いている。ここまで運んでやったのだからそれでいいだろう、といった雰囲気だ。
 まったく気楽な奴らめ。
 口元を緩めて精一杯友好的な表情を浮かべてみせながら、手持ち無沙汰に隣に佇む男だけに聞こえるよう囁きかける。
「しょうもない用件だったら爪先を踏むからな」
 男が押し黙った理由が、単に人目を気にしてか、その台詞にあるのかはまだわからない。

ラポワント市長サルア・ソリュード氏の伝説その2。どんな不測の事態にも冷静沈着(校長関連の荒唐無稽事件を諦めてるだけ)。
なんか本編にもこんなんあったなーと思いながら警備員のくだり書いてた。