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今日に限って、天使と悪魔が囁かない。

 薄闇の中、呆然と目を開く。天井はここ数ヶ月寝起きしている小部屋のものだった。疲れているわりに眠りが浅いことも、自然と夜明け前に目覚めることも変わらない。ただ、肌に触れる感触だけが違っていた——眠っていた間も抱き込んだままだったやわらかな重みの正体を思って息が震える。一糸まとわぬ女の身体だった。ぞっと眼球が乾ききる。
 手放せば消えてくれるのではないか、なかったことにできないだろうか。そんなことを必死で考える自分に愕然とする。
 なりゆきと言ってしまえばそれまでだった。
 拒絶されなかっただけのことだった。それでも、これを引き起こしたのは紛れもなく自分だ。思わず呼吸のパターンが崩れた。絡みつく違和感を振り払うように片手でまぶたを覆ってみても、うそ寒い気配は背筋につきまとって離れない。
 今更逃げ出そうとしている自分への嫌悪が手となって、昨夜の記憶を勝手に探る。まず思い出したのは名前だ。
 クリーオウ・エバーラスティン——
 次いで、彼女のすべらかな肌が無骨な手のひらに包まれて歪む光景が網膜に弾ける。静かに預けられた小さな頭。震える指先、まつげの奥のなみだ、髪が散って揺れ、途切れ途切れの艶やかな声は唇の中に押し殺しきれずに零れ落ちる。それらを見ながら自分が無言だったのは、早々にどうしていいのかわからなくなったからだ。記憶の中で無邪気に笑う、よく知る少女の姿を置いて、目の前に見知らぬ女がいた。彼女の変質は鮮やかすぎた。視線が絡むたびに視界が灼かれていくのを感じていた。めまいを止める術などない。すべては致命的な場所へと加速していった。呼吸が制御できないまま溺れていった。
 彼女からは自分の姿はどう見えたことだろう。自業自得の男がすがるような顔をしているのを想像する。その男は自分自身の起こす行動すべてに動揺していた。そんな顔をしていたのなら——彼女に哀れと思われたというのなら納得もできたというのに、彼女に弱い姿を見せたくないという利己心が想像を否定したがって暴れだした。事実と理想が混線し混乱していく。夜が白んでいく恐怖感に向かって、声を発した。
「消えろ」
 なにもかもなくなってしまえばいいと本気で考えた。自分の声が震えていることには気づかないふりをした。指に絡む髪が自分のものではないことも。涙がにじみそうになっていることも。

 片手が軽く胸に触れていた。偶然当たったとかそんな言い訳ができない程度にぴったりと、しかし不快ではないくらいに強くはなく。絶妙な力加減に感心する。胸のかたちに張り付くことだけで、その骨張った手は彼の意思をまとっていた。
 ベッドに腰掛けるその男の、軽く開いた膝の間にいて、片腕を軽く腰に回され、彼のシャツの袖に指先を引っかけるようにして、彼女が思い出すのは、自分が開けたドアの色だ。
 ここは小さな部屋だ。といっても、友人の実家である安い宿屋、その一部屋とは比べるまでもなく広い。だが、自分の実家の部屋、そのいくつかよりは狭いだろう。そんな部屋だ。本と書類とメモが散乱するその部屋だ。
 彼はもともとこの部屋にいて、自分といくつかの話をして、その間、誰もこの部屋には来ていないし出て行ってもいない。
 つまり……
「鍵、開いてるわよ」世間話の調子でつぶやく。いかにも冷静なイントネーションで。
「ああ」男もまた冷静だった。少なくとも取り乱してはいなかった。「知ってるよ」
 つまり、逃げてもいいということだ。
 互いに身動きせず——相手などは、まばたきすらせずに——見つめあう。
 沈黙は長くは続かなかった。
「ずるい」
「?」
 怪訝な顔をする男に、彼女は言った。
「ずるいわよ。自分が次にすることを、誰かに選ばせるなんて、ずるいことよ」
「……ああ。そうだ」
 そこに自嘲の響きを嗅ぎ取って、たまらなくなった。二・三、呼吸して、身体をかがめる。男の手は動かない、だが、彼女が動く、それで男の手は彼女の身体の上を滑っていった。胸のふくらみを通り過ぎ、鎖骨を過ぎた、首筋を、あごに、頬、髪へ。
 筋肉に鎧われた胸の表面、浮き上がった鎖骨に、彼女は額を触れさせる。黙ったまま。
 しばらくがたった。今度の沈黙は先程より長く続いた。
 彼女はなにも動かなかった。
 故に、おもむろに。
 彼の手のひらが首筋をたどって、背中をさする、腰を過ぎる、そのあたりで彼女は片方の膝をベッドに上げて、彼のシャツを掴む場所を袖から裾に変更した。耳をそばだてて聞く、彼の、なにかを耐えるような吐息、押し殺した激しいそれ。硬い指先が尻を探る、太腿を撫で上げ、奔流としてスカートの中へ。
 たまらなくなった。
 顔を上げる。熱ある瞳の存在。意思を投擲。シャツではなく直接男を抱擁、ああ、ああ。不思議と違和感は皆無。むしろ、もっと早くに自分たちはこうあるべきだったかのよう。何度も繰り返してきたような自然さで唇を触れ合わせ、衣ずれの音を思う。長いくちづけ——
 背中からシーツに沈殿。
 未だ腰掛けた姿勢の男、その腕が彼女を囲い、体躯が彼女を押し潰す、なんというその一瞬か! 彼女は目を見開いてすべてを発見した。彼女の中に居るいくつもの彼女を発見し、彼女は歓喜の声をあげた。幸福ではない。幸福などというものではない。
「ずるいわ……」
 もう一度だけつぶやいた。そうして、たまらなくなった。男の体温は彼女を灼くようだ。
 どうしようもないわ、と彼女の中の一人が言う。だってもう、わたしたちはこんなに溺れているのだもの。