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朝靄に溶けろ

 このようなことを申し上げてよいかわからないのですが——と、使用人頭は言いにくそうに手を揉んだ。彼がこういう顔をするときの話題は八割がた弟のことだ。今度はなにをしでかしたのか、と思いながら促すに、一昨日の深夜にふらりと帰ってきたはずが、そこから鍵をかけた自室に閉じこもって出てこないとのことである。
「食事も摂っていないのか」
「はい、そのようで」
 まったく、心配そうに言うものだ。あのちゃっかり者(もしくは、怠惰を極めることにかけては努力を惜しまないという、明らかな矛盾をきれいに呑み込んでしまう種類の人間)のことだから、部屋に少々保存食など隠していそうなものである。これが一週間ともなればさすがに扉の錠前をこじ開けて押し入らねばならぬだろうが、まだそれほど心配しなくてもよいと思う。雇われ人として、勤める家の息子に何かあっては困るだろうが、そういった理由もありつつ、おそらくは単に使用人頭本人が弟のことを気に入っているせいで——。
(いいや)
 可愛がっているせいだ。
 頭の中で言い直しながら、現実には「報告は気に留めておく、扉くらいは叩いておいてやってくれ」と告げていた。畏まって前を辞する使用人頭の背を見送って紅茶で口を湿す。さて、あの馬鹿者を巣から引きずり出し、老人の心中を穏やかにしてやるには、どうすれば手っ取り早いか?
 我が家で過ごす貴重な余暇に検討するにはなんともしょうもない問題である。が、今考えなければいつ考えるのもふさわしくないだろう。ここは自分の家で、あれが自分の弟である以上。
 と……
 物音を聞いて振り向いた。目が合った相手が緊張を顔に浮かべる。
「にいちゃん」
 弟が驚くのも無理はない(が、こちらのことを幼い頃の呼び名で呼んでいることなど、突っ込んでしまうと機嫌を損ねそうなのでとりあえず黙っておく)。仕事で多忙を極めるようになった数年前から、家のことは使用人にほとんどすべて任せているから、二人は特に顔を合わさずとも生活できてしまう——そして、自然とそうなっていた。今日が特別なのだ。このところは弟のほうから避けられている気もしていたが、彼の年齢を思えばそんなものだろう。
(そんな顔をせずとも)
 あっけにとられた様子の弟に、いったい何を言ってやればいいか。考える時間もなく、零れ落ちたのは短い一言だった。
「お帰り」
「——た、だいま」
 聞いた話が本当ならば、弟が帰宅したのは一昨日のことだ。完全に今更だったろうに、弟は存外素直に返事をした。
(……?)
 あさっての方角に視線をやって、なにか言いたげに唇を動かす様子に内心で首をかしげる。使用人頭の心配ももっともなものだったのかもしれない。少々嫌味な物言いを好むにせよ、この弟は基本的には快活な若者のはずだ。言い淀む姿などいつ見たか。逆に新鮮な心持ちで待つ。が。
「今日は仕事、ねえの」
「いや。少し遅らせただけだ。あと1時間もすれば出て行くが、なにか用か」
「——いんや」
 ふと頰を緩めて弟は小さくつぶやいた。
「別になんもねえよ。俺も、ちょっと片付けたら出る」
「そうか」
「おう」
 ふらりとした足取りで弟は食堂から引き返していく。揺れる拳がきつく握りしめられているのが、少しばかり気にはなったが……
(……使用人部屋を覗いて、皆に挨拶しておけと言うべきだったかな)
 冷めきった紅茶を飲み干して、そんなことを考えただけだった。

 結局、それ以降、弟とはまたすれ違う日々となり——
 偶然出会った同僚に囁かれるまで、あの日、彼の踏み越えたものがなんだったのかは知らずに過ごした。初仕事——とはいえ、晴れ晴れと祝いを告げられる内容でもなかっただろう。職務の性質を思えば、いつかはそうなるとわかっていたのだから、泣き言だって口には出せない。
 ただ一言「そうか」とつぶやいた。
 あれはただ、泣いていたのかもしれない。