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明日の真下

「以上の理由で、ぼくはあっちには帰れません」
 カップを置いてまっすぐに相手を見る。彼は、最後に見た時とほとんど変わらないひねた眼差しに浮かぶ、うんざりした気分を隠そうともしていなかった。
「……俺はまったく無関係だと思うんだが」
「別に責任をとれなんて言ってないじゃないですか」
「そうかい」
 疑いの眼差しで、相手——初めての魔術の師は嘆息する。紅茶の湯気を払いのけるような手つき。
「人選は間違ってなかっただろ? フォルテは他人を管理しようとなんてしない。彼が掌握するのはシステムそのものだから、お前がそのとおりに動くのならそれ以外には感知しない」
「フォルテ教師にはよくしていただきました。まあ、いろいろと」
「あんなツラしといて世話好きだからなぁ」
 しみじみと言われた台詞に思わず吹き出す。
 強面の教師が、リボンをかけたケーキなぞ持って見舞いに来たことを思い出していた。さすがに手作りではないようだったが、いったい彼はどんな顔をしてケーキ屋の店先に立ったのか——教師が去った病室で、あんまり笑いすぎて、折れていたあばらが軋んで苦しんだことまで思い出してしまう。
「痛いの?」
「え?」
 きょとんとして、声のしたほうへ目をやる。声の主は年端もいかない少女だった。先ほどまで床に直接座り込んで騒々しく遊んでいたはずの彼女の手元には色の褪せかけた積み木が握られたままだったが、視線はこちらの腹をじっと見つめていた。
「痛い?」
「ああ、いや」無意識のうちにみぞおちのあたりをさすっていたらしい。「ただのくせだよ。痛くない」
「ラッツベイン」
 師——彼女の父親たる男が彼女の名前を呼ぶと、少女はすぐに彼のもとに駆け寄ろうとする。が、師はぴたりと手を挙げて留めた。
「片付けてからだ」
「はあい」
 敬礼のまねごとのようなしぐさをしてみせて、散らかった床の上に引き返した少女はこれもまた騒々しく、積み木を箱の中に投げ入れていく。
 その様子を横目で見ながら、ふと尋ねる。
「アーバンラマにたまに来てるって聞きました」
「ああ。まだまだ物資が足りないし、村にばかり引きこもってるようじゃ娘も世間知らずのままだ。ただ——」肩をすくめて師は言う。「こいつ、コギーのことを気に入ったらしくてな」
「そりゃまた」
 なにを言うこともできず、同じように肩をすくめる。
 こちらの同情を受け取って、師は続けた。
「しょっちゅう仕事場にまで引っ付いてまわってて、気がついたら軍隊のまねごとなんかを喜ぶようになっちまった」
「……奥さんに怒られませんでした?」
「おくさん」
「奥さんでしょうが」
「いや、まあ、うん」頭を掻いて、決まりが悪そうに、オーフェン。「手がかからないって喜んでるが」
 つまり、娘の変化があまり嬉しくないのは彼のほうらしい。つまらないとでも言いたげに眉を上げる様子に軽く笑ってしまう。
「パパ、片付け終了しました!」
「よし、来い」
 きゃあ、などと歓声をあげてあらためて駆け寄ってきた娘を膝の上に抱き上げ、師は父親の顔になった。
 さきほどと——そして数年前と。思考の中で並べて比べてみても、なにか大きな変化があったわけではない。瞳は鋭いままだし、皮肉げな表情も変わらない。特に笑顔が増えたというわけでもない。強いて言うのなら——
「マジク」
「はい」
 彼の中の変化を見極める前に名を呼ばれ、条件反射で返事をする。
「なんでしょう?」
「……」
 師はしばらく沈黙し、それからつぶやいてきた。
「お前、ここに留まる理由なんてないんだろ」
「断定ですか?」
「お前が本当に切羽詰まったなら、こんな、明日の行方もわからないようなところには来ないさ」
 娘を抱いたまま師は立ち上がった。冷めてしまった紅茶を空にして、彼はカップを指先にぶら下げる。
「すぐに出て行くのか、それともいつまでも留まるのか、その中間か。俺には知ったこっちゃ無い」
 彼の講義口調がふいに懐かしく感じられた。だから、相槌は打たなかった。師は虚空に告げるように続ける。
「歓迎されることがなくても、邪険にされることは……なくはないって程度にはなったが皆無じゃない。住民はキムラック教徒が大半で、俺たちは偏見の対象だ。それでもいいなら、お前の好きにしろよ」
「はい」
 それきり背を向けたかつての師に、彼は穏やかな笑みを返した。
 村はまだまだ静かだった。だが、明日も静寂が続くかどうかはわからない。

そんな生やさしい3YAじゃなかったですね……