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眠れない夜と百年の孤独

「どこかに——」
 朦朧とした羽虫がふらふらと彷徨った挙句に自ら灼かれる、そんな声音だ。やけっぱちで漏れた囁き。頭を胸にもたせかけてくる女は、娘と呼ぶには薹がたっている気がする。しかしそれは彼女の面を毒々しく塗りつぶす化粧のせいかもしれないし、幼い頰の丸みを隠そうとしてそうしているように見えもする。とかくアンバランスな雰囲気はこの類の女には珍しいものでもない。
「どこかに行きたいとも思うのよ——」
「ふん?」
 粉っぽい顔はともかく、道端で適当に買ったにしては上物だったと言えようか。彼は自分の買い物に満足していた。なので、面倒な囁きにも口を挟まない。恋人の如く髪を梳いてやるようなことまでした。
 女の方も、彼がそれなりに彼女を丁重に扱ったうえ今夜の寝床まで提供したので、少しばかり気を許しているのかもしれない。彼が彼女に与えた額は相場より相当低かったはずだが、宿代を加えればそうとも言い切れないだろう。そのためこの件で女はしばらく娼婦仲間にやっかまれるかもしれない。それは女自身で解決してもらいたいところだ。
(路上でぶちこむ奴らの気が狂ってるのさ)
 欠伸が漏れた。「さすがに、人ひとり養ってやれるほどの、金貨は持ってねえなァ」唇を捻って女を見やる。彼女の濃い化粧の中で、瞳の周りは特に入念に塗りこまれている。感情を読ませにくいその瞳がわずかに呆れを滲ませたことに気づけたのは、我ながら賞賛されてよいことのように思えた。
「連れてってなんて言ってないわ」
 おもむろに女は起き上がった。彼女の肩からぼさぼさの長い黒髪が垂れ下がり、顔の左右に壁を作る。
「あたしはこの生活に満足してるわけじゃないって、たまには言っておかないと、ばかな夢すら忘れちゃうの」淡い灯りの中で瞳が揺れる。その中に見えているのは、炎だった。「夢よ。ただの夢だけど。あるの。あたしたちから、奪えないものが。ほとんど誰も知らないし、あたしたち自身も忘れちゃいそうな——でも、夢は、あるの——それくらい持ってていいって、思うわ」
「——へえ」女の腰をさすって素直に言う。「いい台詞持ってんじゃねえか。詩人にでもなれよ」
「そうするわと言いたいとこだけど」苦笑が彼女の身体から強張りをほどかせた。「あたしもね、受け売りなの。そんなんじゃ駄目なんじゃない」
「そりゃどうかね」
「え?」
 女の、疑問の形に崩れた唇を親指で塞いだ。
「意味するところが同じ台詞でも、あんたが喋ればあんたの台詞になるさ。たとえば俺が同じ台詞を言ったとしても、あんたと俺が同じ人生だったことになんかならねえだろ」
「まあ、そりゃそうだけど」女が、戸惑う様子で目を瞬く。
「だろ。だからよ。あんたが喋った台詞は、俺が言うのとは全然違う意味になると思わねえか……」
 かつて。
 それなりの名のある家に生まれ、
 なにもかも手に入るようでいて、なにもかもに届かない日々を過ごし、
 名誉のメッキでくるまれた、実質を見ればただの汚れ仕事に就き、
 今、黴臭い部屋で、女に向かって説教のようなことをしている。
 そんな男は。
(夢か。そうだ。誰にも奪えない、しがみつくべきものは、そんなものだ)
 いい台詞だと思ったのだ。洗練されていないたどたどしい言葉でも——この女の化粧のように、彼女を彩る。
(ああ)
 だからこそ、きっと。
「ああ——いや、いい。もういい」
 途切れ始めた思考の理由はわかっていた。頭を軽く振る。
「話はやめだ。もう寝ようぜエリー。眠くなっちまったよ」女に教えられた彼女の名を囁く。どうせ偽名だろうが、知ったことではない。「明日は早えんだ。悪ィが、あんたにもとっとと出てってもらわなきゃならねえ」
「謝んないでよ。こんないい寝台使わせてくれんのに、文句言わないわよ」
「そりゃあよかった。女に恨まれるなんてこたぁしたかねえ」
「賢明ね」
 くすくす笑って女が口付けを寄越す。その羽根のような軽さに満足し、彼はようやく目を瞑った。