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酩酊と花の香りと

 ナッシュウォータの住民にハーブティーが好まれるのは、街にあふれる花壇にちなんでのことだ。たいした意味のあるものではない。
 単純に値段が安いからというだけの理由で買った、実際には見たこともない草花の名前が大きく書かれた箱を、背伸びして戸棚にしまう。ろくに量りもせずに淹れるため、味や香りは毎回違う。今日のお茶は色が少し薄かった。少し、失敗したかな、などとと思うが、自分はおそらく明日も適当な手つきで適当なお茶を淹れるのだろう。ロッテーシャは自室に戻ろうと、ポットとカップを入れた籠を抱えた。板張りの床を足早に行く——と。
 なにに意識を引かれたか、よくはわからなかった。直感とでもいえばいいのだろうか。普通に考えればなにか物音がしたのだろうが、それがどんな音だったのか、ロッテーシャはすぐに忘れてしまった。裏口のドアを開けたところに、彼女がいたから。
「……エド?」
 おかしなことだが、唇からこぼれた名前を自分で聞いて、それが彼女だと確信を抱いた。夕闇の薄暗い中にいつもと同じ黒い服でたたずむ門下生は、目を瞑り、微動だにしない。彼女にこちらの声は聞こえていないように見えた。もとより無愛想な少女だが、それと同じくらいに——それとも、だからなのか——敏感でもある。少なくともこんな風に自分を無視することは今までなかった。喉を鳴らし、足下にお茶の入った籠を置いて駆け寄る。
「エド」
 彼女は速いペースで呼吸をするだけで、なんの反応も返さない。ロッテーシャはエドの青白い顔を見上げて眉根を寄せた。裏口から覗いたときには気付かなかったが、月明かりに照らされた姿は憔悴しきっていて、ロッテーシャの胸中に疼くものを落とし込んだ。まっすぐに立っているように見えていたが、背は隣家の壁に預けられている。頬に触れてみるが、体温は特に高くも低くも感じられなかった。ほっと胸をなで下ろすそばから、だらりと垂れたエドの指先から赤いものが滴るのを目にしてロッテーシャは目を大きく見開いた。
「どうしたの、それ」
 思わず声が震える。稽古の最中に怪我をすることはままあるが、彼女ほどの遣い手ともなれば縁遠いものだ。そうでなかったとしても流血沙汰にまでなることは滅多にない。動かないエドを相手に、つのる焦燥のままに身体を揺さぶった。
「エド。起きて、エド」
「……っ」
 薄い唇からうめき声が漏れ出して、やっとロッテーシャは少女の肩から手を離した。伏せられていたまぶたがぎこちない動作で上がるのを見つめながら、どこに傷があるのかわからないのに乱暴なことをしてしまったという後悔が頭の隅をよぎった。だが、接し方に迷っている暇もなくエドの身体がロッテーシャに向かって倒れ込んでくる。
「ちょ、ちょっと」
 相手も十代の少女とはいえ、体格の違いは明らかである。とっさに相手の肩に手を添えて足を踏ん張ってはみたものの、体重すべてを支えられるはずもなく、双方、路面に膝をつく格好になった。エドの荒い吐息が耳にかかる。戸惑いの表情を浮かべたまま、ロッテーシャはどうすることもできずに唇を震わせた。
「ねえ、大丈夫、怪我してるの?」
 答えはなかった。ただ、エドから伝わる圧力の感覚が、ふと変化した。単にもたれてくるだけのものではなくなって、背中の中心を指先が撫でていく。
「っ……」
 服がエドの血で汚れてしまう。だが、先ほど考えなしに荒っぽい触れ方をしたことが喉元に引っかかっていて、圧し掛かってくる重みをはねのけることができない。エドの手は背中を通過して首筋をこすり、シャツの襟元を掴んでくる。息を呑み、ロッテーシャは身を固くした。
 怪我をした獣は普段よりも本能を強く見せるというが、それがこれなのだろうか——停止しかけた頭でぼんやりと考える。ロッテーシャはどうしてか硬直したまま、夜の空を見上げた。ちょうど、厚い雲が満月を覆い隠すところだった。
 いつのまにかはだけられた胸元にエドの顔が埋められる。ロッテーシャは呼吸音をことさらに意識しなければならなかった。熱い空気が肌に触れる。反射的に目を瞑り、震える身体を相手に押しつける。
「ロッ、テーシャ」
 くぐもり、かすれた弱い声が自分の名前を呼ぶが、ロッテーシャには応えられなかった。顎を上げ、唇を薄く開いて、酸素を求める魚のように呼吸する。もう一度、エドの声が自分の名前を綴った。
 暗闇の中、互いにすがりつくように膝を折ったまま、溶けていくような幻想をみた。