broken arrow

ひとでなしに恋

 高い空に吹き抜ける上空の風は穏やかなようだった。明るい陽気を巻き込んで、見渡す限りに続く平坦な街の屋根を撫でていく。そこに、ひとつだけ飛び出た打ち損じの釘がある。時計塔だ。今、きっかり正午を告げた。
 朝にぜんまいを巻きなおした、手元の懐中時計の針を一分ばかり過去へともどす。鐘が鳴り終わらないうちにせねばならないと決めているそれを今日もやり遂げ、音をたてて蓋を閉じる。そこに描かれた幾何学模様は木漏れ日の紋様と似てうつくしい。
 窓の外をもう一度、今度は視線で時計の鎖を伝って眺めやる。光のくずははらりはらり、立ち並ぶ高い植木たちの足元に転がり、洒落た煉瓦の小道を彩る。ぬめるように見えるほど磨きあげられた革靴の先がそれを蹴立てていくのが見えた。お帰りだわ、ちいさくつぶやき、急ぎ足で廊下を通り抜ける。
「旦那様」
 階段を下りきる前に、樫の扉の片側が音もなく開いた。視界の隅で明るい日差しが床を舐めるのを感じる。少しばかり膝のあたりが軽くなったような気になり、一気に玄関までたどり着いた。
 毎日磨く床は、どれだけつやづやと黒光りさせても褒められたことはない。しかし、床の反射光が主人をほろりと浮かび上がらせるこの瞬間を目にすると、それが駄賃のように見えるのだった。山高帽の下から持ち上がった視線が石炭のように冷えて硬くとも、これっぽちも気にならない。自分もまた、この歳若い主人の前で笑わない。
「お帰りなさいませ」
「……」
 山高帽を脱いで主人は束髪をあらためる。ばらりと散らばる長い髪で整った顔を隠すようにする主人の、陰鬱に低い声がかけられる。
「昼はいらん」
「はい」
「夜にはまた出る。お前は先に寝め」
「はい」
 それで終わりである。主人はそれ以上こちらに視線をやろうとはせず、足音も立てずに去っていく。自分もまた、昼からの仕事をしなければならない。主人ならば、どうせまた自室に閉じこもるのだ。自分の気をつけるべきは、あの部屋の扉を開けないこと、ただそれだけだ。
 主人の本当の棲家は夜の街だ。
 供は連れず、仕込み刀のみをひとつ携え、彼女には屋敷じゅうの鍵をしっかりとかけるように言い付けておくだけで、いつ帰るとも言わない。
 胸のあたりに抱いた時計の針音が身体に響いていた。給金の心配などしていた時分はとうに過ぎ去り、今はただ、主人を知ることがおそろしい。きりきりとすべてを巻き上げても半日のいのち、このぜんまいのほぐされる速い音が、心の臓と重なる意味も知りたくはない。