broken arrow

ミスタ・シュシュでは気付かない

 プライベートな空間に予告もなく忍び込まれても許せるような相手がいた試しはない。同じ家に暮らしていた兄にさえ、自分の留守中には自室に入り込まないようにとごねたものだ。部屋で生き物を飼うときだけは相談すること、という条件で、約束は果たされた。条件を引き合いに出して叱責されたことは一度きり。だが、犬猫を飼育しようとしたわけではない。まだ慣れない酒を煽った次の日だ。酔った勢いで女を連れ込んだのがばれたのだった。
 その朝、偶然にも弟の部屋の前を通りがかった兄は、漏れ聞こえる声に、事実を覚ったらしい。両肩から怒気を滲ませて踏み込んできた彼と怒鳴り合う羽目に陥った。憤激する自分に対して兄が叩きつけた台詞が奇妙だった。
『人間も動物には違いないぞ。なにをやっている』
 自分はどう返したのか、はっきりとは覚えていない。そっちこそなにを当たり前のことを言ってんだと怒鳴り返しでもしただろうか。兄との約束など頭になかったことだけは確かだ。自分から無理を言って取り付けたくせに、慣れてしまうと当たり前のように振舞ってしまう。家族間ではよくあることだ。
 突然始まった、修羅場といって差し支えのない状況は、長くは続かなかった。
 騒動を終わらせたのは、女が振り上げた掌である。殴られたのは当然のように自分だ。さめざめと泣く女を庇うように背にした兄に自室から蹴り出されながら、なにか理不尽なものを感じていたことを覚えている。
(あれはあれで取り乱してたのかね)
 二十年以上も前の馬鹿馬鹿しい諍いの顛末に今更怒りを覚えはしない。内容もおぼろげな、遠い記憶だ。
 短い廊下から居間へと続く扉の冷たいドアノブに手をかけて、当時の兄の内心について考える。
 兄が周囲と比べて潔癖だと思ったことはないが、彼の屋敷のなかでは起こりえない色事の気配に理性を失ったということはありえたかもしれない。見合いやらなにやらは持ちかけられていたはずだが浮いた話のひとつもない兄だった。彼は結局独身のまま世を去って、ソリュード家の血筋はこの自分で絶える予定だ。
 憂鬱な気分の上に感傷までもが積み上がる。音もなく忍び寄る形のない陰を振り払うように扉を押し開けた。広がっていたのは、静まり返った無人の部屋——だと思いたかったのだが。
 鋭く息を吐いて舌打ちをする。「なんでまだいるんだよ」
「遅かったな」
 招いたわけでもない客が、他人の家のソファにだらしなく寝転がったままで顔を上げた。薄汚れた外套はソファの背に引っかけて、黒ずくめの軽装を晒している。脱ぎ捨てた靴をあたりに転がし、彼はまるで自分こそが家主であるかのようにリラックスした様子だ。くつろいでいないで質問に答えろと詰め寄りかけて拳を握る。爪の食い込む感触でサルアはなんとか衝動を押さえ込んだ。
 一度許せばこうなることはわかっていた。
 いつかのあの夜、こちらへと伸ばされた彼の手は、もう二度と触れないと誓ったはずの手だった。どれだけ自分を求めようとも応えてはならないと。拒まなかった過去の自分に向ける視線でオーフェンを恨みがましく睨みつけた。
 職を、住居を、なにもかもを追われて開拓村に移り住んだはずの黒魔術士——オーフェン・フィンランディが気まぐれにこの部屋に侵入するようになって、ふたつ季節が過ぎていた。
 仕事を終え、王宮の奥へと足を踏み入れると、男は寝室のベッドを占領してカードでひとり遊びをしていたり、居間で雑誌を読みふけっていたりする。空からやってきてテラスから入り込んでいるのだろう。玄関そばの詰め所で待機している警備員たちは皆それなりに優秀であるはずだが、魔術士を警戒する役には立たない。
 オーフェンが二日続けて訪れたことはない。しかし、必ず忘れた頃にやってくる。自分との間にあるはずの因縁の深さを気にも留めないとばかり繰り返される不法侵入に頭を痛め、何度となく脅しをかけているが、効果はみられない。
 今日も然り。部屋に存在を認めた瞬間、唸るような低い罵声を浴びせ、自分が風呂に入っている間に帰らないと窓から突き落とすと宣言したはずだった。実行が可能かどうかは別の問題で、やるという意思をみせるのが重要なことだ。
 声を荒げた記憶をそぎ落とすかのような湯浴みの時間だった。
 たっぷり時間をかけたつもりだったが、意味はなかったらしい。髪の束から冷たい滴が落ちる首筋を強く拭う。
(わかっちゃいたさ)
 犯罪者に執行猶予を与えた体で、実際はただ自分が落ち着くための時間を欲しただけだ。図々しい男がしっぽを巻いて逃げ出すような言葉は、ただのひとつも発することができていない。今目の前にいる彼を追い出す手段は自分の手中にはない。こうして彼と顔を突き合わせていることが暴かれれば自分の首ばかりが危ないのだから、事実を明かせる相手すらもいない。強力な黒魔術士の前で、警戒心のひとつも見えない寝衣でいることに今更背筋を寒くする。
 オーフェンが自分に危害を加えない保証はない。サルアは肩からずれたガウンを少しだけ引き寄せた。
「前にも訊いたような気はするが、てめえ、なに企んでやがる」
「企む?」魔術士は、覚えがないと言いたげに首をかしげる。
「どこかの密偵スパイにでもなるつもりか。生憎だが、仕事は持ち帰れない決まりだ」
 重要な資料や書類はこの部屋にはなく、市庁舎にある執務室の金庫に収めている。盗むものはないと念押ししたが、オーフェンは気圧されもせず、笑いもしなかった。
「まともな判断力がある奴が俺を雇うわけがないだろ」
「どうかね」鼻息を吹いてうそぶく。「この膠着状態にしびれを切らしたら、わからねえぞ」
「お前が言うと、洒落にならねえ気はするが」
 だらけた姿勢で寝転んだままのオーフェンがぼやくように言う。
 彼は、権力闘争の表舞台から退いた——追放された身だ。もどってくる気はまったくないだろう。もともと原大陸の覇権になど興味もなかったどころか、必要に迫られて駆け引きを行いながらもわずらわしげにしていたのだから。今や清々していると言わんばかりの顔をしている。もしくは憑き物が取れたような顔といったところか。
 先ほどは彼の言葉を否定するようなことを言ってはみた。しかし本人の言うとおり、彼はもはやどの勢力からも声をかけられることはないだろう。きっと誰であっても扱いかねる。手駒にするにはアクが強すぎる。せっかく積み上げたものをあっさりとぶち壊しかねない。
 軽く息を吐き出した。
(ったく、面倒くせえ)
 どれだけ親しく付き合おうとも、気の置けない仲にはなりえない。今も、昔も。
 努めて普段通りの歩調でソファに近づいた。抱えていたのは、他人の存在にペースを乱されてはならないという意地だけだ。テーブルの上には満たされた水差しが用意されている。いつものとおりだ。湯浴みのあとに一杯だけ煽り、残りは寝室に持ち込むことにしている。
 グラスに水を注いでいる最中に声をかけられた。
「俺を窓まで引きずっていくんじゃなかったか」
「そんな重労働をする価値はないなと思い直した」
「そりゃありがたい」
「言っておくが、てめえの頭の上でこの水差しをひっくり返してやろうかとは思ってるからな」
 たっぷり中味の残った水差しを掲げてみせる。オーフェンはやっと身を起こして笑った。
「不意打ちする気はないのかよ」
「ああそうだな、次からはそうする」投げやりに告げる。苛つきに煽られて自ら成功率を下げた。まったく、馬鹿な野郎だ。
 ぐいと飲み干す間にオーフェンはソファから立ち上がっていた。空になったグラスを持ったままの手に手が重ねられる。
「別に、水くらい被ってやってもいいぜ。風呂を貸してくれるならな」
「貸さねえ」オーフェンの意味ありげな目配せにはあえて気づかないふりをして、サルアは包み込もうとしてくる手を押し返した。「風邪でもひいて死ね」
「ひくか、それくらいで」
 笑う男の手は案外あっさりと離れていった。だが、標的を変えただけだ。ぬるい温度の掌に頬を辿られて視線が険を帯びる。
「おい」
「もう寝るんだろ?」
「——ついてくんじゃねえぞ」
「なんで」
寝るからに決まってんだろ)
 水差しを握る腕に力がこもった。重たいガラス製の容器で、男の横っ面を殴りつけるべく振りかぶろうとしたのだ。だが暴力の気配はあっさりと察知され、被害者となるはずだった本人に阻まれる。
「っ——」
 ぎしりと骨が鳴るような一瞬が過ぎる。
「それはなしだ、サルア」
 手首を掴む力の強さとは裏腹な甘い顔でたしなめてくる男を、唇の片側だけを歪めて睨みつけた。
「水くらい被ると言ったのは嘘か?」
「だって、風呂は貸してくれないんだろ」
「てめえにくれてやるものなんか、ひとつもねえ」
「んなこと言うなって」
 吐き捨てた言葉を軽く流したオーフェンに水差しを奪い取られた。持ち手を握っていた手首もいまだ彼に掴まれたままだ。振りほどこうと力を込めてもほとんど揺らがない。相手は、水差しをテーブルにもどそうと体躯を屈めている……そのような余所事をしていても封じられてしまう、己の非力を目の当たりにする。
「っ、のっ——!」
 胃の腑が燃え立つような錯覚に襲われた。だが、オーフェンの前頭部めがけて叩きつけようとしたグラスさえ、同じ手に奪われる。
「ちったあ大人しくできねえの」
 気を削がれるどころかむしろ笑みを深くする男に抱き寄せられた。近づけられる唇を咄嗟に避けて罵る。「嫌だ!」
「だめなのか」
 不思議そうな顔をする魔術士を、忌々しい思いで睨みつける。同時に、食事を済ませてきてしまったことを猛烈に悔やんだ。男の襲来を予期していたとしても、会食の予定を後日にずらしはしなかっただろうが。台所の火が落ちたあとでこの区画に残っている使用人はほとんどいない。警備員は常駐しているが、彼らを呼び付けるには、相応の騒ぎを起こさねばならないだろう。不快な男ひとりを追い出すためにかかる手間と後処理を考えるだけで頭を痛めるのは割に合わないと感じる。
 一番いいのは、なんとか男を引き剥がして寝室に立て篭もってしまうことだ。だが、一時は擦り寄るのをやめたところで、オーフェンは嬉々としてベッドに潜り込んでくるだろう。
「サルア」
 腰に腕が絡みついた。べったりと触れる体温が癇に触る。振りほどこうと身をよじった。
 彼が決まって深夜に自分をおとなう理由は、人目を避けるためだけではない。夜にこそふさわしいからだ。この先にある行為が。
「離せ。したくねえ」
 硬い声で告げるが、相手は引き下がらなかった。
「ちょっと付き合えよ。嫌いじゃないだろ」
「嫌いじゃない?」馬鹿馬鹿しい物言いをしやがる――なにを根拠に。鼻で笑って突っぱねた。「何がだ。気にくわねえ野郎に手込めにされることがか」
「あのなあ」
 オーフェンがさすがに閉口ぎみの表情を浮かべる。
「なんでそんなに不機嫌なんだ、お前」
「さあな。てめえが俺を馬鹿にしてるからじゃねえの」
「俺は別に――」
「うるせえ。最初から言ってるだろう、帰れよ」
 恨めしげな顔でオーフェンが食い下がる。「一回でいい」
「んなこと言う奴が一回で済むわけねえ」
「あんな長風呂しといて、よく言うな」
「はあ?」言っている意味がわからない。
 顔をしかめて見つめると、嘆息が返った。やはり拗ねたような目がこちらを見ている。
「うしろの準備してたんじゃねえの?」
「……なんだよそれ」
 なにを言っているのだ、この男は。得体の知れないものを見る心地でいると、オーフェンの手は顎を取り、震える唇を親指で辿る。
「本当は、ちょっとしゃべったら帰ろうと思ってたんだよ。で、いつもはちゃんと洗ってんのかと思うくらい早いから、待ってた。――あんなに長いと、変な想像もするっての……」
「なっ、なんでそう――んッ!」
 仕掛けられたくちづけは短く触れるだけのものだった。だが相手の吐息は熱く、興奮を素直に伝えてくる。
「抱かせろよ。気持ちいいの、好きだろ」
 ゆるやかに自由を奪うだけだった腕が、ついに意思を持って身体を這い回り始めた。背を辿り、尻を掴み、腰を押しつけて衝動を主張する。我ながら大げさなほどに震えて悲鳴をあげた。
「っ、いや、だ! 洗ってなんかねえよ!」
「してないならそれでもいい。俺は、あんたの準備するのも嫌いじゃねえし」
「そういう問題じゃねえっ。くそ、離せっての!」
 他人を迎え入れるために身体の中まで洗い上げ、自分で解したことは何度かある。
 だが、ほとんどの場合はオーフェンにしつこく乞われたからだった。己の痴態をさらけ出したときに目にする、よだれを垂らさんばかりに欲情する彼の顔は、こちらにも昏い悦びを与えるものだった。時折自分から行為を見せつけるようになったのは彼を煽って楽しんでいたにすぎない。触れたい、なかに入りたいとねだらせて、まだだめだとひどく焦らすのは特に気に入っていた遊びだ。ほとんど前戯のようなものと見なしていた行いは、誰かを目の前にしていないだけで意味を変えてしまうだろう。
(俺がどうしていたって?)
 なぜか――途方もない侮辱を受けた気分になっていた。既にはっきり否定はしたけれど、オーフェンにみだらな想像を抱かれたことは事実だ。それはなんとも思っていない。男など、こと性欲にまつわる事象についてはいつまでたっても馬鹿なものだ。だが確かにこの口から放ったはずの、わずかな会話すらも拒否するような悪罵の数々がまったく本気にされていなかったと感じて、胸のなかのなにかがひび割れた。
 ――性交に際して散々啼かされるのは自分の性質だとして諦めようと思えば諦められる。うっかり快楽を覚え込まされたのは、彼を拒まなかったこちらのせいだと言えなくもない。だが確かにそうだとしても、今や彼の考える自分は、媚びて擦り寄る情婦のようなものなのだろうか。互いに慣れていて、扱いは杜撰でもよい。行きずりの娼婦などよりもよほど後腐れはなく、好きに扱えるだろう。便利な道具だ。
 噛みしめた奥歯が軋んだ。
 ほとんど体当たりするように男の身体を突き飛ばすことに成功する。オーフェンはわずかに眉をあげ、つまらなさそうにこちらを見ている。
(馬鹿にしやがって)
 猛烈な勢いで湧き上がる怒りに誘われて涙が滲みかける予感がした。実際には眼球は乾いていたが、身体ごと顔を背ける。小娘でもあるまい。いい歳をした男の癇癪などみっともないだけだし、衝動を得た理由について理解を得られるとも思えない。理解されたとして、慰められたくもない。
 全力で無視を決め込むべき頃合いだった。寝室へと爪先を向ける。案の定オーフェンも追いかけてきたが、追い払うのも面倒になっていた。
「なあ、なんでだめなんだ」
 しつこく食い下がる魔術士を振り返らずに答える。
「やりたくないだけだ。理由にならないのか」
「別に……」嘆息じみた鼻息が挟まる。「生理かなにかかと」
 オーフェンが口にしたのはただの軽口だったのだろう。いつもの自分であれば乗ってやるたぐいの、下品でつまらない冗談だ。今日に限ってやたらと神経に障った。足を止めて吐き捨てる。
「てめえの女房と同じにするな」
「ああ?」
 こちらだけでなく、相手の口調も剣呑さを帯びる。彼は彼なりに、互いの間に流れる空気をいつもの調子に戻そうとして面白くもない冗談を言ったのかもしれないと、頭の片隅で思った。だが言葉は止まらない。
「てめえが女に振られるたびに付き合ってやるほど、俺は暇でも物好きでもない」
「どういう意味だ」
「溜まってんならひとりでマスかいてろ。どうせ暇だろ――、っ!」強い力で腕を掴まれて首だけを相手に向ける。「んだよ。まさか、なに言われてるかわかんねえとか言い出さねえだろうな?」
 頬に嘲笑を上らせるが、相手は真剣な顔で見返してくるだけだ。
「別にあいつに断られたわけじゃないし、お前のところに来たからって、そういうことばかり考えてるわけじゃない」
「よく言うぜ。どうせ今日も油瓶なんぞ持ち込んでんだろ」
 冷たく言って、サルアはオーフェンのズボンのポケットにある不自然な膨らみを見下ろした。正体は食用油の瓶だったり肌荒れにきく軟膏の容器だったりするが、この部屋を訪れるときの彼が、男同士の性交を助ける物品を携えてこなかったことがいったい何度あるだろう。
 指摘をしても彼は表情を変えないままだ。「万一、そういう気になったときに困る」
「我慢すればいいじゃねえか」
「身体に悪いだろ」軽口で笑い飛ばしたオーフェンが半歩だけ距離を詰めてくる。「それに、これがなくて痛い思いをするのは主にてめえだ。文句を言われる筋合いはない。言っておくが、俺は一度だってお前を誰かの代わりにしたつもりはねえぞ」
(真面目な顔でなにを言うかと思えば)
 そのような戯言を信じる馬鹿がどこにいるのかとせせら笑った。「嘘つけ」
「嘘じゃない」
「ただの一時しのぎだろ、俺とのことは。ただの遊びだ。最初からそうだったはずだ」
「お前にとってはそうだろうな」
「へえ? てめえには違うのかよ」
 眉を上げて問う。だがやはり相手は真剣な顔だ。
「遊びごときでこんな危ない橋を渡ろうなんて思うかよ。お前じゃあるまいし」
「じゃあなんだってんだ」
「こんなことをしたくなるのはあんただけだ」言い切ってから少しだけ目を泳がせる。「その。男は」
「……まあ、俺が教えたからな」
「は?」
 眉間に深く皺を刻んで睨みつけてくるオーフェンから目を逸らして耳の付け根を掻く。彼が自分の肌に彼の手癖を刻み込んだように、彼をそそのかしたのは自分だ。
 約定を守ることに疲れて揺らぎ、道を踏み外したがっていた青年に、自傷の代替手段として微笑みかけた。許されない相手と、自然に逆らう行為を。気の狂ったおこないを。すべてはがんじがらめの心を軽くするためだとうそぶいた。どうしても逃れられないものにまっすぐ向き合うために、ほんの少し己を壊してみるのも一手だと。突拍子もない、考えもつかない方向へ冒険してみてはどうだろうかと。
 あの頃、おそらくは自分も疲れていた。
 いっときの破壊衝動で、この男を堕落させたかった。
 ――結果。
 思惑は失敗に終わったといっていいだろう。彼は特にその精神を歪めることもなく、罪悪感に苦しむでもなく、二十年余りを過ごし、今はただこの痩せた身体に愛着を示している。サルアはうっそりと笑った。笑うことしかできそうにない。
(自業自得じゃないか。ええ?)
 そろそろ立ち話にも飽いた。早く諦めてもらいたい一心で、腕を組んでまくし立てる。
「もとから異性愛者ヘテロセクシャルだろうが、お前。俺が例外なのは単なる慣れだ。その気になりゃ誰だって抱ける。突っ込むだけなんだからそう変わりゃしねえよ」
「だから、他だとその気にならねえって」
「慣れた相手で、抵抗が薄いだけだ。ああ、でも」顎に手を当てて目を伏せ、わざとらしく考え込んでみせる。「俺が特別なんだと思い込めば、異常行動だと思わなくて済むってのはあるのか?」
「なっ、てめ」
「懸想しているとでも言うつもりか? 俺に?」
 馬鹿馬鹿しいとまでは言わなかった。彼が、一時の気の迷いとはいえ自分に執着心を持っていたことは察している。あくまでも心理的な拠り所のひとつとして寄りかかってきていた彼の望みに気がついたからこそ、より具体的で肉体的なものに変質させてしまえと思いついたのだから。
 溜め息をこぼしたのはオーフェンのほうだった。
「……どうあっても信じたくないってツラだが」彼の声音は不穏に濁る。「そんなに証拠が欲しいのか」
「証拠?」
「俺の本気が知りたいんだろう」
 なにをと笑って突っぱねるような暇はなかった。
 正確には、足払いを避ける隙がなかった。
 もとより格闘においては相手のほうが一枚上手である。体勢が崩れたところを抱き取られ、なすすべもなく床に転がされた。衝撃は上質な絨毯に吸い取られ、警備員が異変を察してやってくるほどの音はしなかった。悲鳴も罵声も追いつかない。どころか、身を翻す前に太腿の上に座り込まれる。肩を掴まれて床に押しつけられ、起き上がることすら叶わない。肌を暴かれる予感が電撃のように背筋を走った。
「っ、触んな!」
 己の身勝手が招いたことだとしても、これ以上の空虚を味わいたくはない。ガウンの腰紐をほどきにかかる男の手を引っ掴む。
「ふざけんな!」爪を立ててわめいた。「これが証拠とやらか。無理矢理犯すことが!」
「やめてもよかったんだよ、サルア」
 平坦な声が頭上から落ちてくる。感情を窺わせない声音にぞっとしながらもがむしゃらに抵抗を続ける。しかしすべてが的を外れていて役に立たない。ほどなく腰紐は緩められて相手の手に渡った。自然とはだけるガウンの合わせ目に手が差し込まれるかと思って抵抗を激しくするが、揉み合いの果てになぜか身体をひっくり返される。
「っ痛――!」
 片腕を背後にひねり上げられて悲鳴をあげた。その一手で完全に押さえ込んだとわかっているだろうに、とどめとばかりに側頭部を殴られて息を詰める。脳震盪を起こすような強さではなかったが、反射的に緊張してしまうのは仕方がないだろう。思考が硬直している間に両腕を背でひとくくりにされて唇を噛んだ。
 オーフェンが拘束に使ったのは先程奪い取られた腰紐か。縛り上げられている手首自体には痛みはない。だが、不自然な状態で固定されているため、長く続けば痛むだろう……気の遠くなるほどに遠い明朝へと思いを馳せ、ただでさえ苦く翳っていた気分が最底辺まで墜落していった。
「誰でもいいわけないだろう」
 ぼそりと言ったオーフェンが、肩口からガウンを引きはがす。ほぼ同時に、腰に感じていた彼の体重が軽くなった。だがこちらに自由を与えたわけではない。背中を押さえる手によって、いまだ抵抗は封じられている。そのまま乱暴な手つきで下肢を剥かれた。すぐに奪い取られてしまう寝衣のやわらかさにほぞを噛みつつ、胸を圧迫される息苦しさに身をよじる。
「離っ――せよ!」
「やだね」
 返ってきたのは笑いを含んだ声だった。床に這いつくばらされたあげくに尻をむき出しにされても諦め悪くもがいているさまは、さぞみっともないことだろうと思う。だからといって好きにされてやる気にもなれずにあがいていると、男の声は呆れたような調子に変わる。
「諦めろって。可愛い声出すばっかになるまでやめねえからな」
「は、っ、なんだそれ」
「ごちゃごちゃ考えてねえで喘いでろってんだよ」
 縛られている腕には意識せず力がこもった。どういうつもりなのだ、本当に。怒りは遠のき、代わりにやるせない気分が満ちる。無理矢理首を曲げ、なんとか相手の表情を視界に入れようとする――思いのほか魔術士の顔は近くにあって、用意していたはずの罵倒が霧散した。
「やめろ!」
 首の角度をもどし、絨毯に額を擦り付ける。くちづけられようとしていたのは明白だ。この体勢ならばしばらくは叶わない。
「舌なんか入れてみろ――食いちぎってやる!」
「……は。威勢のいいこって」
 つまらなさそうな声が離れていった。身体の上で体重が動く。わずかでも彼の不快を誘えたのなら、もしかするとこのまま解放されるのではないかという期待がよぎった。――が。
「うあ、っ」
 悲鳴をあげる。予告なく排泄器官に指を突き立てられたせいだ。乾いたままの皮膚同士の接触で、せいぜい先端が浅く沈む程度に留まっている。はっきりした痛みはない。だがオーフェンがこのまま無理に押し進める気であれば話は別だ。
 どこか面白げな声音で彼が言う。
「本当に準備してこなかったのな」
「そんな必要がどこにある……!」
 罵りながら、引き裂かれるときの痛みが脳裏をよぎった。身じろいだ身体を再び強く押さえつけられる。指は抜き出され、素肌の上を撫でていく。
「暴れんな」
 子供に言い聞かせる口調でオーフェンが囁く。
 受け入れられるにせよ、跳ねつけられるにせよ、相手に届かない言葉に意味はない。意味のある言葉を失った自分におそらく価値はない。
 男は、その抜け殻を愛でると言った。
 こちらの意思を無視してもいいからそうすると言った。
 ほとんどえずくような音を漏らした喉を、無骨な指先が撫でていった。

     ※

 他人の手の触れる範囲が狭くとも、しつこく撫でさすられていればそれなりの反応はしてしまう。耳を汚すねばついた音は、腕と背にまとわりつく布地と同じくらいに不快だった。ガウンは大きく裾をめくり上げられ、着ているというよりも腕と一緒に身体にくくりつけられているというほうが近い。もう逃げないからと嘘をついても戒めは解かれなかった。対して下半身は完全に裸にされている。惨めな姿だ。
 覆い被さられてからどれだけ時間が経ったかわからない。そろそろ油断する頃合いかと何度か抵抗してみたが、毎回なんなく押さえつけられたあげく、あやすように肌に唇を落とされる始末だった。
 暴れようが喚こうがさっさとやることをやればいいと思うのに、男は本当に自分の頭を使い物にならないようにするつもりのようだった。他人を受け入れても痛みがないよう丁寧に油を塗り込まれてはじっくりと拡げられる。性感を得やすい箇所は既に把握されていて、隠そうにも隠せなかった。
 快楽を与える指はひどく優しく、それでいて的確に追い詰めてくる。まだなんとか保っている理性が溶けきるのは時間の問題かと思われた。
「いれるぞ」
 高く上げた尻の間に硬く勃起した陰茎が押しつけられて、その上からまた油が撒き散らされる。瞼を閉じて、脈打つもののかたちを思い起こした。きっと彼は、ただ抱き合うときよりも、充血の度合いを強めているだろう。こうして“準備”にやたらと時間をかけたりするあたり、相手を痛がらせるのは本意ではないようだが、それでも、乱暴に扱うのが好きなようだから――。
 先端が押し込まれた。
「ぐ……っ!」
 潰れた声が勝手に漏れた。思考を他人事のようにしてぼやかしていた現実がはっきりと身に迫る。相手が現在に至るまでにかけた時間の甲斐あってか苦痛は少ない。しかし、押し広げられる圧迫感からは逃れられない。何度かに分けて入り込んでくる異物の感触にひたすら耐える。
「う、ぁ」
「——は、きっつ……」
 根元まで性器をねじ込んだあと、締め付ける感触を確かめるように揺さぶるのがオーフェンの癖だった。
「んっ、あ、あっ……!」
 たまらずにサルアのあげる悲鳴をよそに、尻たぶを撫でた手は前に回る。熱く脈打つ性器を掴み、先端を撫でながらオーフェンが囁く。「なかで、こんなに気持ちよくなれんのにな、あんた」
「っ、んだよっ! 馬鹿にっ、し、てんのかッ」
「どうしてそうなるんだ」苦笑する気配。体内に埋められたものが少しずつ引かれる。「――な、他に、いねえの。こうしてくれる奴さ」
「ひ、あ!」
 深く突き込まれて足がびくつく。わけもわからないまま頭を左右に振ると、勝手に丸くなろうとする身体を撫でる手の主はひどく満足そうな吐息を漏らした。ゆるゆると抜き差しが繰り返される。引きつった声で訴えた。
「い、やだ、オーフェ……」
「それは聞かないって言った」
 肩を引かれた。伏せた状態から横臥するまで転がされ、しばらくぶりに相手の顔を見た。興奮に頬を上気させながらも瞳は冷静さを取り戻していた。わずかに微笑みを浮かべた彼が言う。
「キスしていい?」
「っ、嫌だ!」
「そっち向くなって」
 顔を背けようとするが、顎を取られて戻される。有無を言わさずくちづけを奪われるかと思ったが、オーフェンは瞳を覗き込んでくるだけだった。いったいこの自分のなにを見ているのか、そばに顔を近づけたままで彼は黙り込む。ふたりとも無言のままでじっと見つめ合うことになったが、しばらくして、手も顔も離れていった。
 片足をわずかに持ち上げるようにして、体内を小刻みに穿たれる。
「んっ……! あ、あッ」
「あんたの気持ちいいとこ、ここだよな」
「や、いやだ、そんなのいいからぁ!」的確に抉られて声が上擦る。「も、さっさといけよ……っ、あ、ぅ!」
「やだよ。いれたばっかだ」
「――っ!」
 拗ねたように言った男に、胸の先端を容赦なくつねられてのけぞる。「ひ、痛ッ、てめ……!」
「気持ちよくねえの?」
「いいわけあるか、っ! んん、っ、あ、やめ」
「いい反応してんのに」
 おかしいなと言わんばかりの声音だが、指先は離れた。腕を縛られたままで抵抗できない身体を好き勝手に弄り回すオーフェンの片手は、ひくつく腹筋を撫で回したあと、勃ち上がって先走りをこぼす陰茎に行き着いた。強く根元を掴まれ息をのむ。
「ひ、っ、駄目だオーフェン……っ」
「いいから感じてろ」
 制止は退けられ、身体を苛む愛撫に手淫までもが加わった。身悶えて床を這った気になっても、手が使えないのではわずかな距離しか動けない。必死で距離をとろうとしているのにすぐに引きずり戻されてまた奥を抉られる。ほとんど泣きわめくようにして喘いだ。
 与えられているのはただ甘いばかりの快楽だが、急かすように追い立てられてはもはや苦痛と変わりがない。
 いたぶられ追い詰められた先にあるのが、指先で触れるだけで溶け崩れそうなほどの愉悦だと知っている。ただしそれは理性と引き替えでなければ手に入らないものだ。上も下もわからなくなって、すべてが圧倒的な空白に埋め尽くされるあの感覚は、よじのぼった屋根から転げ落ちたときの、目も眩む浮遊感と似ていた。果ての景色が、恐怖と隣り合わせの狂気じみた手触りであることを、自分を蹂躙する男は知らないのか。
「い、やだ、ぅ、ぁ」
 来るはずのない助けを乞うように視線を揺らす。見慣れているはずの天井も壁も家具もすべて、網膜を覆う涙によって形を歪めていた。ひっきりなしに揺さぶられて踊る視界は幻覚でも見ているかのようだ。まばたきをした拍子に、ついに雫が頬を伝う。
 ぬるい温度の水滴がまなじりに集束してこぼれ落ち、絨毯に消えていくまでの一部始終を見ていただろう男は、それでも止める様子がない。
 嬌声は勝手に喉を通り過ぎていくようになった。だから、なにを考えているわけでもない。めくるめく快感と、夢のように現実感の薄い風景のなかにいて、つい舌が震えただけだ。
「……キ、リ――っ」
 最後まで言い終わらないうちにきつく喉を掴まれる。気管を圧迫されて、呼ぼうとした名前どころか悲鳴すらもが潰れて消えた。まさかこのまま絞め落とすつもりかと戦慄がよぎるが、指の力はすぐに緩められた。どろどろの快楽に浸されていたところに落とされた毒が気付け薬となって、混濁しかかっていた意識がわずかながらも覚醒する。
 オーフェンに顎を掴まれて彼のほうを向かされた。身体は横向きで寝かされたままのため、首だけを曲げて正面から視線を絡ませる形だ。突然いっさいの愛撫を取りやめた彼は、険しい顔で猛然と迫ってくる。
あいつならいいのか
「……?」
 あっけにとられて見上げる。
 こちらが酩酊から醒めつつあるのが、呼吸や表情から知れたのだろう。オーフェンは顎から手を離し、わずかに目を伏せて唇をなぞるように触れてくる。恥じているとは言わずとも発言を取り消せるものなら取り消したいという顔をした彼が先程、なにを言ったのか。
 ゆっくりと頬が歪んだ。
 あいつも何も、お前が当の本人だろうに。馬鹿馬鹿しい問いかけを発した男の心中を察して笑う。
「嫉妬か?」
 即座に平手で頬を張られてこめかみが床に衝突する。
 この結果を生むと薄々わかっていて言ったのだが、やはり機嫌を損ねたらしい。想像通りとはいえ殴られていい気持ちはしなかった。忌々しい気分で目を閉じる。オーフェンも、苛立ちついでに萎えてしまえばいいと思う。
 しかし相手は覚えたての子供でもなく、粘膜に包み込まれた陰茎が簡単に勢いを失うわけもない。仰向けになるまで転がされた身体が持ち上げられ、床との間に膝が潜り込んでくる。正面から腰を抱え上げられて背中の半分ほどまでが空気に触れた。無言のままに陵辱が再開される。
「ぐッ――! ん、あ! は……っ」
 喉から飛び出した声の半分に悲鳴が混ざった。相手がこちらへ示していた配慮が失われ、思うがままに貪られているせいだ。容赦のない強さで突かれるたび、身体の下に敷かれた腕と動かせない肩がなすすべもなく軋む。怒れる男に体内を抉られながらなんとか拘束を緩めようと苦心するが、いったいどんな風に括ってあるのか、自力で解けそうにはない。
「ッ、ぁ、ちょっと止め、ろ――ってぇ!」
「うるせえ」
「オーフェンっ!」
 いつの間にか相手の肩に引っかけられていた足を振り下ろして背中を蹴りつけたつもりになる。実際のところ、踵は宙を蹴っただけで肌には触れなかったが。嫌がらせくらいにはなるだろうかともがき続ける。
「っ――が、っつくんじゃねえよッ、ガキか! ちっとも待てねえのかっ」
「……っ、んだよ!」
 罵声と抵抗のどちらが功を奏したのかわからないが、やっと相手の動きが止まる。欲を言えば、完全に息が整うまでこのままでいたかったが、あまり放っておいてもまた癇癪を起こされるだろう。荒い呼吸を押しのけるようにして唇を開く。
「は――、っ、……起こせ。一旦」不機嫌な顔を負けじと睨みつけた。「後ろからにっ、しろ」
「顔も見たくねえってか」
 誰がそんなことを言った。
 嫉妬は続いているらしいと思いながら苛々と告げる。「腕が痛え」
「――」
 オーフェンは一瞬もの言いたげに口を歪めたものの、要求を叶える気にはなったらしい。埋め込まれていた陰茎は一旦抜き去られ、身体が裏返される。彼の手つきがただの物を扱うようであったからといって、文句を言うつもりはなかった。両手で腰を引きずり上げたオーフェンに再び侵入されて恍惚の息が漏れる。
 どのような触れ方であっても、相手の与える快楽に慣れた身体は勝手に熱を孕む。
 頬を絨毯に擦り付け、瞼を閉じて、連続する衝撃に耐えた。腰の奥からわき上がる快感にも、できる限りは抗った。

     ※

 終わりが訪れるまでの長い間、特に睦言など交わすわけでもなく、肌の触れる音と荒い息遣いだけが部屋を震わせていた。こちらの果てる瞬間を察知した相手に身体を転がされ表情を確かめられたことくらいが、彼が自分に対して抱く交情のあらわれだったのかもしれない。
 遅れて限界に至ったオーフェンが、精液を体内に注ぎ込まずに太腿に吐き出した。それは少し珍しいと思った。だがすぐに忘れる。やっと終わったのだという暖かくも冷たくもない感覚に満たされていた。ぼんやりとした視線を虚空に投げて考えることは、奴にこの腕の拘束を解いていくだけの理性が残っていればいいが、などということだった。肌を辿る他人の指がなにをやっているのか、気にするわけでもなく。
「ん……ッ!?」
 突然口に押し込まれた指先に思わず噛みついた。遠くで鳴った舌打ちが耳を打つ。
 口腔に広がる味に覚えがあって顔を歪めた。精液を肌に落としたのはこのためか、それともあとから思いついただけなのか。責め立てられ続けて酸素不足に陥っている頭ではなにも考えられない。舌で押して指ごと吐き出そうとするが、逆に奥へと押し込まれてえづくことになった。聞くに耐えない声を発して咳き込むとさすがに指は抜き取られたが、呼吸が落ち着き始めるのを待って、今度は唇に塗りつけられる。
「……っ、は」
 断じて飲食物ではない。口にすることなど普通はありえない。
 他者の一部といっていいものを消化器官に取り込む行為が、気分のよいしろものであるはずがない。だが応じてやらねば酷い目に遭うのはこちらだ。ほとんどやけになって舐め取る。
 くしゃりと髪を梳かれた。褒めてでもいるつもりか。当然ながら、なんの慰めにもなりはしなかった。
 少しずつ口元に運ばれる体液を何度か飲み下してやると、唇がこめかみに触れていく。煩わしくて顔を背けた。男の顔を視界から外したままで吐き捨てる。
「気は済んだか」
「……サルア」
 相手の声音に怯んだ様子を嗅ぎつけても、同情する気にはなれなかった。深く息をついて苛立ちを遠ざける努力をする。
「解け」
 身体を揺らして腕を示す。
 特に渋られることもなく、それを施した男の手によって、戒めは解かれた。
 やっと自由になった身体をなんとか起こして胸元にガウンの襟をかき寄せる。足下のほうで立ち上がったオーフェンもまた身繕いをしているようだった。彼の起こす、余韻のひとつも感じさせない慌ただしい衣擦れの音を聞きながら、まるで人目を忍んだ逢い引きのようだな、と考えて――状況としては、それ以外のなにものでもないことを思って小さく苦い笑みを漏らした。恋人でも愛人でもない自分たちの間柄なら、いったいなんと表現すればいいだろう。
 どうでもいい。
 軋む身体を持ち上げるのには骨が折れたがなんとかやり遂げる。視点を高くすると、他人の手で脱がされた下衣が散らかされているのが目に入ったが、そちらへと一歩踏み出しただけで拾うのを諦めた。足が萎えきっているのを思い知ったからだ。できる限り歩きたくない。
「おい?」
 サルアが最初と向かう方向を変えたことにオーフェンが気がついたのかどうか。背中から声をかけられる。
「寝る」
「寝室はあっちだろ」
「面倒くせえ」
 辿り着いたソファに身を横たえ、体液にまみれた裸身にガウンを巻き付けるようにして丸くなる。両腕で自らを抱き、しっかりと目蓋を閉じて、なにもかもを締めだそうと試みた。だが近づいてくる足音を止めることはできない。どのみちソファの背には彼の外套が引っかかっているのだから、これを取りに来ることはわかっていたのだが。
 オーフェンが無言で正面に立ったのを感じる。
 指先で髪に触れてくる。眉根を寄せて身じろいでも体温は離れていかなかった。梳くような仕草はまるでこちらを労るかのようだ。――煩わしい。
 重い目蓋をこじ開けて、目の前にある膝を睨みつける。
「――オーフェン」
「ん?」
「起こせ」
 手を伸ばして低く告げる。相手は特にいぶかしむこともなく手を取った。傷病人を扱うように背中にも腕を差し込まれ、ソファの上に引き起こされる。
 そのような触れ方もできるではないかと揶揄するような気持ちが少しだけ沸き上がる。が、口にはしない。サルアは座面の端に身体を寄せ、空いたスペースを指で示した。「座れ」
 従順に座ってみせたオーフェンへと手を伸ばす。
 肩に掌をつけて少し力を込める。さすがに意図を問うような視線を向けられたが、こちらが譲らないと見ると、彼は自分からソファの座面に背をつけた。窮屈な姿勢で寝転ぶ男の身体にまたがる。
 首に手をかけ、力をこめた。

 見下ろす先で、男は、小さく眉根を寄せただけだ。じっと見上げてくる瞳に、今から縊殺される恐怖心はかけらも浮かんでいない。もちろん、この疲弊した身体に残っている力がわずかしかなく、ろくに害を与えられていないせいでもあるだろうが。
 できないとでも思っているのだろうか。
 物理的に可能かどうかという意味では、もちろんできないだろう。窓から突き落とすという先の宣言と同じように。彼を力ずくでねじ伏せ痛めつけるような力は自分にはない。たとえ現在のように疲労困憊の状態でなくとも。骨と皮にわずかな贅肉を貼り付けただけの貧弱な腕は、ただ重いばかりで取り回しづらいあのガラスの剣を自在に振り回していたとは思えない細さだ。
 息の根を止めるどころか、絞め落とすこともできないかもしれない。だが苦痛を与えることならできる。痛めつけようとする意思を見せている。
 それでもオーフェンはただ訝る視線でこちらを見る。
 彼はまだ自分を——私利私欲での殺人を忌避するような——清廉とまではいかずとも、真っ当な人間だと信じている。
 微笑む。
 指先が震えて脈動までの距離が近くなる。男の呼吸がやっとわずかに乱れるが、まだ引きはがそうとはしてこない。――馬鹿な奴だ。
 だからこそ先のない王の寝所になど忍んできたりするのだろうが。徐々に力を強めながら身をかがめ、半開きの唇に吸い付いた。舌を差し入れて上顎を撫でると、苦しげに吐息を震えさせながらも男の両腕はこちらの背に回される。どうやら、まだ耐えるつもりでいるらしい。
 本当に馬鹿な奴だった。
 もっと馬鹿なのが自分だ。たとえこの場で彼を八つ裂きにしたとして、ひとつも魂は救われないとわかっていて、このような軽挙を行っているのだから。
 唇を離してゆっくりと目を開ける頃には、両手の力は抜けきっていた。
 ただ相手の身体に縋るような手の形を見下ろして目を細め、男が急いで酸素を取り込む様子を眺める。せわしなく上下する喉仏をべろりと舐め上げると、困惑する眼差しが当てられる。
「おい……」
「まだいけるだろ」
 自分がどんな顔をしているのかわからないまま、うそぶく。おそらく笑っているだろう。自ら滝壺に身を投げるときの顔だ。硬く組み上げられた足場にもどることを考えないとき、笑わない人間などいるだろうか。内心に抱えているものが歓喜だろうと絶望だろうと、あるいは虚無であろうとも、笑っていないはずがない。気だるさを訴える身体を引きずって男の上からしりぞいた。ソファの隅にうずくまり、布地に包まれた足に手をかける。
「おい、ってば」
 口淫でもしてやろうと思ったのだが。
 陰茎を下着の中から取り出す前に止められた。一度は股間に近づけた顔を両手で引き剥がされる。そのついでに半身を起こしたオーフェンに背を撫でられた。
「サルア」
 求められているのはくちづけだと理解して、目を閉じる。
 皮膚を擦り合わせるだけの触れ合いをしばし味わった。耳に届くかすれた吐息はどちらのものだろうと考えるが、重なり合った同じ場所から漏れ出ているのだから、判別しようがなかった。
 何度も顔を傾けながら、手探りで相手の身体に触れる。陰茎を探り出すと既に熱を帯びていた。途端にきつく抱きつかれて苦笑する。先程まで深く交わっていたからとはいえ、少し触れられたくらいで興奮しすぎだ。
 差し込まれた舌先に口内を荒らされながら手の中の熱を擦り上げる。その礼というわけでもないだろうが、身体のあちこちに触れられて、こちらも徐々に夢中になった。肌にまとわりついていた布地はついにすべて滑り落とされたから、おそらくは床にわだかまっているのだろう。どうだろうと関係はない。今、互いへの愛撫を邪魔するものは必要ない。
 手の中の性器が硬く育ち切る頃には、二人とも肩で息をしていた。
 貪りすぎた唇が痺れてもたつく。口元を汚す唾液が不快だが、構っている余裕は消え失せていた。一糸まとわぬ裸身を、男の首筋に絡みつかせる。
 熱い。
 もどかしくて擦りついた。
「はやく、いれろよ」
「……っ」
 無骨な掌が乱暴に裸の腰を持ち上げる。逆らわずに身体を浮かせて膝立ちになった。陰茎の切っ先は自らの手で誘導して押し当てた。散々嬲られてほぐれきった場所で男を迎えようとする。
 恍惚の息が漏れた。
 きっとこれで、本当になにもわからなくなれる
『ごちゃごちゃ考えてねえで喘いでろ』――ふと、蘇った。
(全部こいつの思い通りか)思いついて苦笑する。意のままになるのは癪だが、仕方がない。
 早く欲しいと囁いた言葉は嘘ではなかった。現在のように半端に意識の残った状態ではなく、すべてを手放し、なにもかも忘れて眠りたかった。確かに結末としてはオーフェンが発した言葉通りだが、それでも彼の描いた筋書きに従った結果でないのならば諦められると思った。――なのに、いつまでたっても求めた感覚が訪れない。
「っ……おいっ」焦れて身体を揺すってもかなわなかった。
 オーフェンの手はしっかりと腰を掴んでいるが、浮かせた身体を支えているだけで、一向に押し下げようとはしてこない。恨みがましく睨んでみても彼はもの言いたげに薄く唇を開いて見つめ返してくるだけだ。
 どうやって子供の悪戯を止めようかと逡巡しているかのような顔だと思った。しゃらくせえ
「なんだよ。寄越せ」一息に言い放った。「てめえなんか食い潰して捨ててやる——」
「だめだ!」
「なにがだよ!」
 オーフェンの肩に拳を叩きつけ、その上に額を押しつける。また癇癪の種が芽吹いたなと頭の片隅でぼんやりと誰かが溜め息をついた。自分であり自分ではない誰かだ。表面に浮き上がって取り乱す己にはひとつも手出しをしてこないの目が冷ややかに細められる錯覚に苛まれながらも、詰る言葉は止まらない。
「俺が欲しがるものは、なにも与えないとでも言うのか! いらねえと言っても押しつけてくるくせに!」
「な、――そんな話じゃねえだろ!」
「るせ、っ……畜生」
 唇を噛む。たった今吐き出したのは泣き言以外のなにものでもなかった。厭うているはずの男の胸に縋って叫ぶ言葉がこんなものか。まだ涙こそ流していないが、情けなく震えて。――馬鹿みたいだ。
 もういいだろ、とたしなめる幻聴を聴く。もう期待しないと何度誓ったら気が済むのだ。勝手に期待して、裏切られた気分になって、喚くたびに自己嫌悪に陥って。あまりに滑稽ではないか。これ以上恥を晒す必要がどこにあるんだ。
 でももう立ち上がる力がない。
 他にできることがひとつもなくて、相手の胸に寄りかかった。深い溜め息をついた彼の筋肉が震えるのを肌に感じる。
 ぼそりと声がした。「勘違いしてんなよ」
「……なにを」
 他人の膝の上に座り込んだまま顔を上げられないでいると、二本の腕が背を抱いた。髪に鼻を埋められる。においを嗅がれていることに気がついて指先に力がこもった。「オーフェ……」
「ちゃんとベッドでしたい」
「は?」
 刺々しく針を立てていた感情の上に困惑が降る。「なんだ、それ」
「別にそのまんまだ」ぶつくさとぼやくような声。「ここじゃ窮屈すぎてなにもできない。もっといろいろしたい」
「いろいろってなんだ!」戦慄に震える。「俺はもう体力ねえぞ。時間もないだろ、勘弁しろ」
「ああ? んな乱暴にしたつもり無いぞ」
「……レイプだった気がするが」
「そうなっちまっただけだ。したくてしたわけじゃない」
「縛るの好きなくせに」
「うるせ。その他は大事にしただろ」うなった男が耳朶に噛み付いた。痛い。
 精一杯に腕を突っ張って懸命に離れようとする。
「やっぱり都合よく忘れていやがるなお前! 途中で一回殴られたぞ俺は!」
「ああ? ……お、前が余計なこと言うからだろ」
「そうだな悪かった。最中に他の男の名前なんて呼ばれたらムカつくよなキリランシェロ君よォ」
「忘れろ」
 憮然としたオーフェンにもう一度抱き寄せられた。「それより、いい加減我慢できなくなってきたんだけど」
「うわ……っ」
 足の付け根、きわどい箇所に擦り付けられた怒張がどくどくと脈打っているのを感じて息を呑む。男の腕が肌を撫でた。どう考えても魅力に欠ける、貧弱で老いた身体を、それでもいとおしむ仕草で。
「セックスしよう。俺と」
 額に落ちかかってきていた髪がオーフェンの手にかき上げられた。
 鋭いかたちの瞳が懇願を宿している様子がよく見えるようになって、サルアは思わず眉をひそめる。もう二十年も彼と付き合っているが、自分が彼のこの顔に弱い自覚が芽生えたのはここ最近のことだ。まさか、意識して狙い撃ちされているわけではあるまい。そう思いたい、が。
「あんたの声をちゃんと聴きたい。二人で気持ちよくなりたいんだ」
 ——本当に、馬鹿な奴だ、俺は。
 真正面から告げられた言葉に、胸の奥にわだかまっていたものがあっさりと解きほぐされていく。おそらくはたったこれだけが自分の欲しいものだった。得るためには彼になにもかも差し出しても構わないと思うほど。
「最初っからそう言やいいんだ」
 浮かび上がった苦笑をごまかすように相手の首筋に両腕を絡みつかせる。裸の背を撫でられて身体から力を抜くと、男が耳元でぼやいた。
「お前、気分で言うこと変えるのやめろよな」
「ん?」
「だいたいいつもは嫌がるだろ、さっきみたいなこと言うと」
「ごつい男相手に気取った台詞を吐いてる男って無性に気持ち悪くないか」
 正直な気持ちを告げるが、オーフェンはとりあえずは無言だ。思ったことを不用意に口に出して、また機嫌が悪くなると面倒だと思われているような気がする。
 が、彼が内心でなにを考えているかはサルアにとってたいした問題ではなくなっていた。
 かつて自分は、どれだけ気に入った玩具でも、パーツのたったひとかけらまですべてが己のものにならないと放り捨てるような子供だった。今でも片鱗は残っている。少し縄張りを侵されたと思うだけで不機嫌になるあたりなど、なにも変わっていない。
 あの頃と今の違いは、己を知っているかどうかだ。自分はもう子供ではなく、なにもかもが自分のものになるなどとは思えない。
 手に入らないものに溢れたこの街で、たとえ一夜の幻でも、満たされたと思えたから。それでいい。
 耳に唇を近づけて囁いた。
「ベッドでしたいなら、抱えて連れてけ。もう俺、歩けねえぞ」
「……ったく」
 首を振った魔術士の腕に抱え上げられて寝室まで運ばれる。
 その間に横たわった短い距離で、何度もくちづけをした。