懐かしい響きが、かすれて消えそうなか弱さで、それでも確実に耳を打った。
のろのろと視線をあげて、声の主を見やる。幻聴ではなかった。彼女と並んで歩いていたのは何十年も前の出来事のように思えた。それと同時に、つい昨日まで彼女と同じ部屋で寝起きしていたようにも思った。
短く切った黒髪が縁取る相変わらずの童顔からは、野暮ったいセルフレームが消えて銀色のチタンが光っている。それを見て、つい、尋ねてしまう。
「お前、やめねぇのか」
「なに……を」
「眼鏡。前も――あのうるせーガキ共とか。コンタクトにしろって、お前、散々言われてたじゃねえか」
「……嫌よ」
ぶっきらぼうな返答と表情から見るに、それで大分やりあったらしい。
――頑固な奴。
くくっと笑うと、鳩尾のあたりが小さく痛んだ。また肋骨が折れているのかもしれないと思う。だが今は放っておくしかできない。それよりも、目の前の女に目を細める。
こうしてゆっくりと眺めると、学生時代は「地味」の見本だった彼女も少しずつ洒落っ気が出てきたように思えるのは、以前より交友関係が広がったからなのだろうか。自分の知らない誰かが彼女を変えていくことにはたいした思いはない。外見がいくら変わっても、この女はこうやって歯を食いしばり、涙をこぼすこと自体を悔しそうにして泣くのだから。
湧き上がる内心の呆れをそのまま声に出す。
「お前、ちったあ成長しろよ」
「こんな、歳になってまで、馬鹿やってる、あんたなんかに……言われたくないわよっ」
断続的にしゃくりあげながらも彼女はこちらを睨みつけてきた。流れる涙を拭いもせずに、小学生のように泣いているような奴がなにを言っているのか。地面に転がったまま唇をひねる。
「はっ。馬鹿で結構だっつーの」
「あっ、あんたね――」
「クソつまんねぇトコで、自分がクソになってるより断然いいねぇ」
「……ディンゴ」
「っ、と!」
熱気の去った空き地に寝転がっていた数十分で、危険を察知する能力くらいは回復していたようだ。
勢いよく振り下ろされた拳をギリギリのところで転がって避ける。一瞬前まで自分の身体があった場所にぶつかった手の下で鈍い音がした。想像するに、よりにもよって特別酷いことになっていそうな箇所あたりを通過していたが、まさか狙ってやったことではないだろう。とりあえず文句を言ってやろうとこちらが口を開くより先に罵詈雑言が飛んできた。
「避けんな馬鹿ぁ! おとなしく殴られろっ」
ひっくり返った耳障りな声でわめく女が、続けて拳を振り上げるのを見てあわてて跳ね起きる。これ以上――それも、昔の女の、武器も持たない細腕などで――ダメージを与えられては、失態中の失態である。少なくとも、この女と自分のことをよく知る相棒に、盛大に笑われることは間違いない。たいした打撃ではないが、狙いがめちゃくちゃなせいで逆に捕らえにくい細い手首をどうにか引っ掴んでがなり立てる。
「無茶言うな! こちとら、肋骨折れてっかもしれねえんだぞっ」
「そんなの知らないわよっ! あっ、あんたなんて、世間様からしたら、それこそクソみたいなもんなんだから! 単細胞っ。ろくでなしの犯罪者っ」
「あー、ったく、うるせーなあ……」
両手を拘束されてなお自分を殴るつもりでいるらしく、抵抗をみせる女がわめいているのはおそらくは正しい罵倒なのだが、げんなりと嘆息するしかなかった。そうだ。自分は、このクソみたいに簡単な世間に染まることすらできないほど要領の悪い単細胞だ。頭の悪いろくでなしで、悪知恵だけがよく働く犯罪者で、言うまでもなく健全な社会とやらにとってはただのクソだ。そういった自覚はしているが、じゃあ、この世界で『真っ当』な奴らは、誰一人としてクソじゃないというのか?
「お前は……」
どうして信じていられるんだ、と、そんな台詞が舌に絡んだ。青臭くて馬鹿馬鹿しく、口に出すことを反射的にためらうようなその問いかけは即座に握りつぶした。
途切れた言葉の続きを求めてだろう。わずかに首をかしげて見上げてくる女の顔を苦々しい思いで見つめ返す。
「それでも、どうせ、お前は追っかけてくるんだろ」
「え?」
彼女の、涙でぐちゃぐちゃに汚れた幼い顔は、昔と同じように自分を見ていた。それが感傷だったとしても構わなかった。ひどくすっきりとした心地で口を開く。
「茜――」
掴んでいた手首を解放するが、彼女はもうこちらを殴ろうとはしていなかった。長い間呼んでいなかったその名前を口に馴染ませるようにもう一度呼ぼうとしたその瞬間に。
雑草まみれの空き地に光が踊った。
厚い布が翻る重い音が耳に届いた。
それだけの一瞬で現実がひっくり返る。神経に染みついた感覚が勝手に身体を持ち上げる。
「氷太っ」
震える茜の声が自分の名前を呼んだ。そして唾を飲み込むような間を開けて、物部くん、と続く。ああやはりそうかとなぜか納得する気持ちを抱え、ふらふらと立ち上がろうとする。あいつを前にして、地べたに座り込んで女といちゃついてなどいられない。
ああ、遠くで、旧敵がなにか言っている。
風の音にまぎれてほとんど聞こえないのだが、どうだってよかった。懐かしい感覚だった。懐かしすぎて、あろうことか、ついていけないでいる――この自分が!
暴走しようとする感情に身体が追いつかず、ただ膝を立てるだけだというのに体勢が崩れかけた。危うく茜を押しつぶしそうになって慌てて背中を反らす。女が手を出すか出すまいかと逡巡している様子は一瞥しただけで、光を背にした人影に顔を向ける。
「……ったく。てめーも相変わらず、遅ぇんだよ」
これだ。これこそが正念場というやつだ。
かすむ目蓋に力をこめて、懐かしい青い影を見据える。今にも崩れそうな足でようやく地面を踏みしめて、傷が痛むのを無視し、不細工に無理矢理に、唇の端を吊り上げる。音を立てて鼻水をすすり上げる。
音もなく現れた一頭の鮫が悠然と頭上を横切った。
感情を映さない水棲の瞳が、宿敵を視認したことを肌の感覚で知る。空気をうねらせて泳ぐ黒い鮫の悪魔――自らの魂と同じように、獰猛に牙を剥く。
細かい砂の渦が風に舞った。それはこちらに浴びせられる光を反射して、まるで祝福じみた輝きとなって、鮮やかに視界を彩った。
*
一難去ってまた一難。とはいえ氷たんにはお祭りでしかないでしょうけど。
代わりに、茜ちゃんはいてもたってもいられないんじゃないかなあと思います。ばかな男どもに振り回されて、Dクラの女の子はみんな大変だなあ……。
梓はまあうん。
とにかくがんばれ茜ちゃん!
ということで、世羅さんへの次のお題。
『季節を間違った食事』。
ほんとにねえこのクソ暑い中、冷房の一切ない部屋でラーメンを食う苦痛といったら……。←